役に立てるつもりで学ぶ

牧衷さんの講演を紹介します。

 ぼくがどこでそういう見方を手に入れたかというと,実は,学生運動やっていた時代に革命文書というものをたくさん読むことを通じて手に入れたんです。ぼくは運動の役に立てようと思って読みます。そうすると,直接に役に立てようと思って読んでいますから,その当時どういう状況の中でこういう論文が現れたのかということを考えなければ,その論文の真意をつかむことが出来まないということに気がつきました。
 一例をあげればレーニンの『何をなすべきか』という本には,乱暴に要約してしまえば「革命は意識的な少数が大衆の鼻づらをひっぱって運動に駆り出さなければできない」と言っているように読めます。ところが一方,同じレーニンの『左翼小児病』という論文を読むと,「大衆に同化して運動を進められない連中に革命なんかできっこない」と言っているんです。二つを並べてみるとひどく矛盾します。一体どっちがホントなんだと考えると,それぞれの論文がどういうときに,どういう議論に対抗して書かれたかということを知らないと,何とも判断のしようがない。その上で同じ人間が書いたんだから,共通するものがあるはずだ。その共通するものが一番大事なことなんだということがわかるというような具合です。
 その真意をつかむことが出来なければ,いくら本を読んだって何の役にも立たないということを学生運動の中で見つけるんです。今から名前を言うとみなさん笑うかも知れませんが,ぼくもレーニンとかスターリンとかいう本をずいぶん熱心に読んでおります。読んでいるんだけど,その読み方は他の人たちと違います。
 一番だめな読み方というのは教科書のような読み方です。そういう読み方しかしなかった連中は,運動の方針を立てるときに間違ってばかりいます。当たり前です。歴史的状況が違っているんだから。真意を取らずして文字面を読んだらだめに決まっている。そのだめさ加減とぼくの読み方の有効性というのを学生運動の中でぼくは身につけたんです。だからその歴史的に見るということが一つ。

一言で言えばどうなのか

 それから,そこから出て来るんですが,運動なんかでそれを使おうと思いますと,要するに「一言で言えばどういうことなんだ」ということがわからないと使いものになりません。だから,いろいろな本を読むと,「要するに一言で言えば何なのよ。」と聞いたとき,それがなんだかわけがわからないような本は,そういう本には2種類ありまして,著者が頭がよくてぼくが悪くてわからないというのと,著者がバカで何言っているんだかわからないというのと両方ございます。どっちにしろぼくにとっては役に立たないからそういう本はほっぽり出します。
 要するにそうやって自分なりにこの問題は一言でいえばどういうことかとイメージを作る。そういうイメージなしにぼくは実はものを考えられないんです。
『牧衷連続講座記録集Ⅵ』から引用