国立教育研究所紀要(ばねと力)

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板倉聖宣さんが仮説実験授業をを国立教育研究所紀要に発表したときのものです。昭和42年2月。つまり、1967年2月。私が高校2年生のときに発行されました。仮説実験授業の提唱が1963年の秋ですからそれから3年半の後です。当時苦労してこの紀要を入手して熟読したという先輩の教員もいました。内容は「仮説実験授業による力の概念の導入指導」で授業書《ばねと力》を使って力の概念の導入ができると主張しています。
 仮説社から出ている『仮説実験授業──授業書《ばねと力》によるその具体化』板倉聖宣著はその紀要に発表したときのそのままです。板倉聖宣さんは仮説実験授業を最初に科学教育研究協議会の夏の大会で提唱し、その機関誌『理科教室』に発表しました。「なぜ研究所に最初に発表しないか」と言われることを予想し、その答も考えてあったそうです。
以下「仮説実験授業提唱の頃」(『牧衷連続講座記録集7──学生運動と仮説実験授業の源流』に収録)の中に出ている話です。

仮説実験授業を文部省から切る

 (仮説実験授業のすばらしいことに)文句言わせないという自信を持ったこと,これはやっぱり重要ですね。それでもやっぱり怖くて,何が怖かったかというと今度は違うことが怖かった。成果が上がりすぎたから,これは取られるということを心配した。文部省のものにされちゃう。それはぼくが文部省にこき使われるっていうことだ。これはすごく気にしたです。それから左翼の運動にも取られることを心配した。
 だから,ぼくはまずぼく自身を文部省から切ることを考えた。切れないよ。給料もらっているんだからねぇ。(笑い)
 どうやって切ったかと言うと,ぼくはこの論文をうちの研究所の紀要に最初に出さない。科教協の雑誌に出す。つまり日本の左派も右派も非常にはっきりしていてさ,最初にどっちに出たかで右か左か決めるんだからね。(笑い)文部省の方へ先に出たら,左派にとって敵になるでしょ。これは力の弱いほうへ先に出す。科教協の方へね。それは文句言われるに決まっているわけですよ。実際に文句言われたです。それはもう口実をはっきり考えてあって「まだ至らぬ者ですから,研究所の正式発表としてはどうかと思いまして」(笑い)ぼくはそんなこと全然思っていないよ。(笑い)きわめて至っている。「至らぬ者ですから,こちらに出します。それから十分に吟味して誰からも文句が言われなくなったら文部省に迷惑かけられないから,そしたら研究所の紀要に出します。」
 非常にはっきりしたデータだからって言って,ぼくに「内外教育通信という文部省よりの教育雑誌に書け」という左派の人がいて書いた。それで一応左派のものだという感じが出る。
以上引用終了
 この紀要の論文は非常に慎重に書かれていて、足をすくわれる心配のあるような議論は立てず、だれでも認めざるを得ないような議論を展開しています。反論を想定しひとつひとつ反対意見を反駁しています。『たのしい授業』に載る板倉聖宣さんの文章は仮説実験授業がいいと思っている人たちを対象にしていますが、この論文では仮説実験授業とは何かをまったく知らない人たちを対象にしているのです。
 板倉聖宣さんは当時の状況の中でいかにして仮説実験授業を広げていって、自分の考えを実現していくかについて、慎重かつ細心の注意を払って、しかも主張がはっきり伝わるような文章を書いています。牧衷さんは「その論文が書かれたときの状況を想像しながら読むことが大切。」と教えてくれました。その忠告に従ってこの論文を読むと論文の読み取りの深さが変わり、仮説実験授業とは何かがよりシャープに理解できるように思います。仮説実験授業の論文は真理が書いてある聖典として扱うのではなく、時代の状況の中で目的を持って書かれたものであるということを意識して読むことが大切なのだと思います。