手段の目的化

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牧衷さんの講演の一部を紹介します。全体は『牧衷連続講座記録集Ⅰ』に収録されています。

手段が目的になったこと(1)──遅刻指導の例──

 その目的意識が現在の教育では見えなくなって「なんのために教えるか」わけがわからなくなっています。教育ではしばしば目的と手段が混同されますが,手段であるはずの教えることが目的化されてしまったからですね。「教えることになっているから教えるんだ」となってしまっている。
 それは,同様のことが学校教育の現場ではしばしば行われています。たとえば遅刻について。なんであんなにうるさいのか。無断欠席について,なんでうるさいのか。いつごろからうるさかったのか。これは,学校が始まって以来うるさいんです。
 学校教育が始まった時は,日本はまだ農業社会でした。それから「新しい工業社会に適応できる市民」を作っていかなくてはならなかった。そのときに「何が一番問題になったか」というと「時間の使い方」なんです。農業社会では「雨が降ったらお休み,くたびれたら一服」です。しかし,工場労働はそうはいかない。8時始業となったら,8時5分前にはピタリといて,8時にダッと機械が回り始めたら全部それに対応しなければならない。雨が降ろうが嵐になろうが,工場が休みにならない限りは。
 ところが,そういう生活の慣習というのが全然ありませんから,明治の初期には,その「時間どおり」がとっても困ったんですね。明治の初期に,いろんな技術導入のためにやってきて技術指導をした外国人たちが,異口同音に言っていることがあるんです。それは何かというと「日本人はとてもよく働く,頭もいい,手先も器用だ。言うことがないように見えるけれども,時間に勝手に遅れる,勝手に休む。従って日本では近代工業は育たない」
 実はこれ,日本だけに起こったことじゃないんです。中国でも起こりました。中国で「労働英雄」という制度がありまして,ちょうど文化大革命が始まったころでしょうか,どういう人が表彰されたか聞いたんです。それが,ある工場のボイラーマン。誕生日のお祝いを家でやっていた(むこうでは誕生日は盛大にお祝いするのがしきたりなんだそうですね)。そしたら,そのとき工場のボイラーが故障したんだそうです。それで,宴会を途中でやめて工場へ行ったというんで「労働英雄」!。

──日本ならみんな英雄ですね

 日本なら行かなきゃクビですよ。それから,あるオバチャンが「労働英雄」になった。彼女は工場で使う工具,バイト(旋盤の刃)だとか,その工具の倉庫係で,彼女に聞けば「どの工具がどこにあるか」たちどころに分かるということで「労働英雄」。日本だったらこれもクビですね。そのオバチャン休んだらどうなるんだっての。「そのオバチャンがいなくても,誰でもがそこへ行って自由に必要な物を取り出せるシステムを作り出した人」なら,これは「労働英雄」です。日本だったら,みんな自分のところに抱えこんじゃって「あたしがいなかったらダメヨ」と言っている奴はクビになりますね。中国ではこれが「労働英雄」
 つまり,農業社会から工業社会に移るときには,このくらい人間の意識はズレちゃうんです。だから「時間を守って働く」ってのが日本人にはものすごくつらかったし,同時に社会にとってはものすごく必要だった。だから,学校で遅刻にはものすごく厳しかった。意味があったんです。整理整頓もさっきのオバアチャンみたいなのがあるから意味があった。

◆遅刻は社会がしつけている

 ところがそれから100年。どんなノロマな子どもでも,学校を卒業して会社へ勤めたら,遅刻なんて絶対にしないです。「遅刻できる」となればしますよ。でもそれは,「出来るからする」んです。フレックスタイム制とかね,それで仕事ができるから。ダメとなれば,それでクビになっちゃうんだから。どんなナマケモノだって,そりゃピシャっといきますよ。そして,どうしてもそれに適応できない僕みたいなのは出勤簿のない職業を選びます。僕の職業は,シナリオが期日までにできていれば会社へは行こうが行くまいがかまわない。納期に遅れたらクビですが,それに間に合えば,それまでは時間をどう使っていようとかまわない。
 「時間を守る」ということがすっかり社会に定着しちゃって,どんな子どもでもそういうことのしつけを心配しないでもいい状態になった。それでも,それだけがズーッと伝統墨守で残っている。
 学校では「遅刻をやかましく言うってのは社会に出てからのためのしつけだ」と言うけれど,そんなことはもうちゃんとしつけられているんだっての。親父お袋を見ていればわかっちゃう。親父お袋が遅れていくかってんです。遅れていったら,休んだらクビだっての。そういう家庭で育っていて,なんのしつけですか。そんなの学校でしつける必要は全然ない。社会がしつけているんですから。