科学的なものの見方考え方3

4.科学をどうとらえるか。
──真理であるかどうかの判定を自分でできることの重要性──
さて,以上のように,いろいろな科学不信,理科嫌いが生まれる原因が,「科学的とはどういうことか」についての誤解から生じているとしたら,われわれは,科学というものをどのようにとらえ直したらいいのだろうか。
ある人達は「科学は真理のかたまりである」と考えている。そう考えると科学は冷たいものになる。その結論を覚えるしかなくなる。科学教育というものは,《科学》という名の《真理のかたまり》を覚えさせるという仕事だということになる。
しかし,科学が真理のかたまりだとしたら,それが真理だということはだれが決めたのだろうか。神様が決めたのだろうか。
科学において,真理を決めるのは人間である。それも特殊な人間だけにわかるものではなく,だれにも順序さえ追えばわかるはずのものである。すべての人が納得するだけの議論をし,その証拠をそろえてきたものが今日の科学であるのだから,その理論が正しいかどうかを,自分で判定できなければならない。それができないとしたら,それは科学とはいえない。とすれば,科学教育も生徒が,その理論が正しいかどうか,自分で判定できるようにしなければならないはずだということになる。そうでないと,その生徒にとっては教えられたことは《自分で真理であるかどうかを判定できる存在としての科学》とはいえないことになる。生徒が科学者と同列に自分を置いて,科学者の研究したことを真理であるかどうか自分で判定し,それを受け入れたとき初めて,生徒が科学を身につけたということになるのだと考える
「科学上ではすでに確認されている理論といえども,その理論をはじめて理解しようとする人間にとっては,1つの仮説的な存在としての意味しか持たないのである」(『科学と方法』板倉聖宣著 季節社216ペ)

5.《科学的なものの見方・考え方》をどうとらえるか
《科学的なものの見方・考え方》とは何かと考えたときに,どう考えたらよいだろうか。私はそれを「新しい問題が出て来たときに,自然や社会に問いかける姿勢が出来ている」ということととらえたい。《未知のことを知ろうとする思考》これを《科学的なものの見方・考え方》であると思う。
そのためには,「自分は未知を知り得る」という自信が必要である。また,自然や社会に対して豊富なイメージを持っていることも必要である。知ろうとするときに手掛かりになる,概念や法則を知っていることも必要になろう。

6.科学的なものの見方・考え方を育てる授業をどう組み立てるか。
《未知のことを知り得る自信》はどうやって身につくのだろうか。それは,「未知のことを感動的に解明しえた」という経験をすることが決定的に大切であると考える。そこでどのように授業を組み立てているか,紹介し,ご批判を仰ぎたいと思う。
◆私の授業
科学を自分のものとして受け入れることができるために以下のようなやり方を併用している。
①仮説実験授業・・・科学的自然観を教える。基本法則,基本概念の教育。イメージを持って考えられるように。
②教科書に沿ってやる授業・・・現実への妥協の中でわかりやすい説明の工夫。イメージ豊かに,分子模型の利用,教師実験を効果的に入れる。③生徒実験・・・実験技術の習得と,理論の正しさを実際に体験する。
④問題演習・・・受験に対応

仮説実験授業の実際の様子
授業書《ものとその電気》による授業
ねらい すべてのものは電気的粒子からできている。
電気を自由に取り出したり,移動させたりできる。
予想を立てることの教育的意味
予言性のある知識が大切
仮説実験授業を生徒はどうとらえたか。
生徒の感想文より [ ]は筆者のコメント
TK 実際に電子の動きを肌で感じることができたのでよくわかった。木片やネギの実験を目で見ることによって初めて、誘電分極、静電誘導を理解できたような気がする。
[ことばだけの理解と,イメージ豊かに理解できたことの違い]
OM 物理の授業とは思えないほど楽しかった。電子の移動をくわしく何度も繰り返して説明してくれたので、大変わかりやすかった。今まで、電流が目に見えなかった分、未知の世界に起こっていることに思えていたけれども、実際に自分の手から流れてきた電流などをネオンランプなどで見ることができたり、手で触れてショックを受けることで、とても身近なものに感じられてきた。複雑な電池とかコンデンサーとか導線とかいった専門的な道具を使わずにコップでできてしまうのは驚いた。
[電池やコンデンサーや導線などは「専門的道具」と感じているとは驚きだが,生徒にとっては日頃から科学は自分に手の届かない存在として感じられている。ところが,この授業で科学が身近になり,自分で正しさを確認したり,利用できるものと感じられるようになったのではないか]
NY 実際に人間を使っての実験が非常に真実味があって感銘を受けた。今までの項目で一番興味を持ち、物理を楽しく学べた。これからもわれわれに身近な物を使い実験を続けてほしい。
[電気を人間にためる実験で,習った理論を人間にも適用していいかどうかで非常に迷うところである。迷った揚げ句,思い切って適用してみたら,予想が見事に当たったという経験をして,それが「真実味があった」という表現になったのだろう]
SK 静電気がこんなに楽しいものだとは今まで思っていなかった。電気盆は家でも簡単に作れて、学校のコップよりももっと大きいものを作り、電気盆もだいぶ大きい物を作って実験したら、思った以上に電気がたまるのでびっくりした。また、電子の動きがまるで目に見えるようでおもしろかった。電気のことはもっと深く勉強したい。
KA 家でライデン瓶を作ってやったら本当にたまって楽しかった。
[上記の2人の場合は,家に帰ってから,自分で電気盆やライデン瓶を作ってみるところに,科学を自分のものとして,主体的にとらえているようすがうかがえる]

楽しい授業の教育的意義
仮説実験授業が終わると授業を5段階評価してもらう。5と4が合わせて過半数というのが授業の目標であるが,大抵は9割以上が5か4をつけてくれる。仮説実験授業では生徒が支持しなければやめなければならないという原則がある。幸いにしてこれまで生徒に支持されてきたので続けることができた。今日の学校教育の中でできるとはとても考えられないほど内容も方法も変わった授業をやり始めてもう20年も経ってしまった。その間飽きることもなく,楽しさを維持しながら続けることは,考えてみれば驚くべきことだとも思う。
仮説実験授業では押し付けをしない。いろいろな生徒の考えがわかる。身につけた法則が使える。生徒にとってよかったからこそ続けられたと思う。

7.迷信と科学的認識
迷信については板倉聖宣の研究がある。それによると,
①迷信がなくならないのは,科学を押し付けるからだ。
②迷信がなくならないのは,それがとても役立つからだ。(迷信の根源は超合理主義を望む人の心だ)
もし,そうであるならば,おしつけを中心とした,これまでの多くの理科教育は,悪い迷信をなくすのに役立たず,むしろ逆効果なことをしてきたということになる。迷信についての教育も「迷信は間違いだ」と押し付けるのではなく,「本当はどうかな」と問いかけていく姿勢をもった生徒を育てることによって,迷信のいろいろな問題も解決していけるのではないだろうか。そのために仮説実験授業は大変役に立つと思う。また,友引は葬儀屋さんの休日を確保するために作られた迷信であるとすれば,きっかけの論理として,役に立つ迷信を自分で作ることによって,現在ある迷信に対しても「不都合な迷信は作り変えればいい」と思えるようになるのではないだろうか。
とにかく,迷信を退治しようとする取り組みは有害無益だと思う。
あとがき
今回の研究会の全体のテーマとどのように結び付くかという点では,私自身はっきりしないところがある。授業で超能力を扱えば,生徒が喜ぶのは確かである。(文化祭ではクラスの生徒とやったことはある)しかし,ひとつひとつの超能力のタネを解明するということは(固有振動のところでちょっとやって見せて解明してみせる以外は)やっていない。「超能力と称するもののタネが解明できたから,超能力を信じない」ということは,そのタネを解明した《超能力》を信じないということなのであって,別の超能力なら信ずるかもしれないということである。
「超能力を科学である」と主張する人はそれがだれにも納得のいく形で示す義務があることになるが,それを聞くわれわれは,超能力については,「インチキである」ことを証明する必要はない。「手品も見破れない自分が超能力を見せられたって,それが超能力なのか手品なのか見分けられないから,わからない」という態度で十分なのである。
生徒が科学を自分のものにし,科学的自然観を身につけ,新しい問題に「本当はどうかな」と問いかけて実験していくようになっていけば科学的なものの見方・考え方を身につけたことになると思う。

参考文献
『科学と方法』板倉聖宣著 季節社
『科学の学び方・教え方』板倉聖宣著 太郎次郎社
『子どもの変革と仮説実験授業』板倉聖宣編著 明治図書
『科学的とはどういうことか』板倉聖宣 仮説社
『教育の目的としてのたのしさ』板倉聖宣他著 キリン館