1月25日には、第2回目の『科学と方法』読書会をやりました。
この会は、ただ読むだけです。私のそれに関連した資料もみなさんに読んでもらいました。
以下私の資料
「板倉聖宣著『科学と方法』読書会資料 2020年1月25日 渡辺規夫 nwkase@yahoo.co.jp
板倉聖宣著『科学と方法』「誤謬論」の歴史的位置づけ
誤謬に陥ることを防ぐにはどうしたらいいか。
真理を求め、誤謬を避ける方法として
①何もしないという方法
確かに何もしなければ誤謬に陥らない。失敗を避けるために何もしないという方法があるのである。しかし、何もしなければ失敗しないけれども、何の成果もない。問題を解こうといういうときに、間違えることを恐れて問題に取り組まないという人も少なくない。しかし、これは実は最大の失敗ではないだろうか。真理を探究しようというときにも、間違いを恐れて何もしなければ間違いに陥る心配はない。しかしこれこそが最大の失敗ではないだろうか。真理の究において何もしないというのは最大の誤謬である。
②真理を教えてくれる人に従うという方法
賢い人に従えば間違えないと考えられるからである。専門知識がない者にとっては、自分で考えるより、それについてよくわかっている人に聞く方が誤謬を避ける方法だと言えるであろう。
しかし、真理を教えてくれる人は誰か。その人が言うことが真理だとどうして判定できるのかという問題が残る。
戦前の多くの人は専門家の言うことを信じたために悲惨な戦争に突入することを阻止できなかった。
その反省に立って、「正しい専門家に従う」という方針をとった人たちがいた。その人たちは「正しい専門家であるスターリンの言うことに従うべきだ。」と主張した。
③真理と誤謬の矛盾論
三浦つとむはスターリンから精神的に独立することにより、権威により真理を判定することが愚かなことであると断定した。
三浦つとむの誤謬論
新興宗教における誤謬の研究
『哲学入門』における誤謬の分析
板倉聖宣の「誤謬論」は三浦つとむの誤謬論を発展させたものである。
④仮説実験授業の誤謬論
学校の多くの授業は、真理を教えてくれる人に従うようにできている。そのため誤謬は真理の反対で悪いことなのである。
仮説実験授業では教師は真理を教えてくれる人ではない。考える材料を与えてくれる人である。仮説実験授業では誤謬は悪いことではない。真理に近づいていくために不可欠のものである。板倉誤謬論はそののちの仮説実験授業の真理観、誤謬観のもとになっているのである。」