科学的なものの見方考え方2

3.これまでの理科教育の根本的誤り
以上みてきたように,これまでの《科学的なものの見方・考え方》を教えようとする授業の多くは,教師の意図に反して,結果として大量の科学嫌いな生徒,大人を生み出した。
一方,生活経験をもとにして教えるべきとする理科教育では,科学を身につけることがなく,従って身のまわりの問題もあまり解決できず,まして一般的普遍的な問題に取り組むことが出来る生徒を育てなかった。 客観的に言って,理科教育で比較的成果を挙げたといえるのは受験の理科教育であるかもしれない。ここで身につけた学力は技術者としてやっていく上でそれなりに役だったといえよう。
しかし,そのような学力は,新しい問題を解決していこうというときにはあまり役立たない。新しい問題に取り組むときには,学んだことが血肉化していなければ,ほとんど使えないといってよい。
理科の教員の多くは受験的理科教育を受け,それによって自然科学の基本法則を身につけた人が多いと思われる。では,その理科の教員は学んで来た法則や概念を使って新しい問題を解決していけるだろうか。
新任者の集いで新しく理科の先生になった人にこれまでの教育の中では出会ったことがないと考えられる問題で,日頃自分が教えている理論をもとにすれば正しく予想できるはずだが,直観的に考えると別の予想が立つようなものを出してみると,自分が教えている法則,理論を使って考える人はほとんどいない。(自分もそうであった。今も・・・)ほとんどが,直観的に考えて予想がはずれてしまう。いくら理論を学習しても,それを使って考えるという習慣がないのである。ひとつの理論を学んだらそれをいろいろな場合に適用してみるという習慣が法則,理論を身につける上で非常に大切なのであるが,そのような訓練を受ける機会はこれまでの教育の中でなかったのではないだろうか。(少なくとも自分はそうである)だから,授業で教えている法則も実は本気では信用していないし,新しい問題に出会ったときにその法則を使って考えるということがないのである。
理科の研究会で実験を紹介するとその実験をして見せる教え方に興味を示すのではなく,「本当に理論どおりになるのか」と感心する理科の教員(新任でなくても)が少なくない。ことばの上で理解していることと,ものの見方・考え方として実感として直観的に理解していることとは,大きく掛け離れているのである。しかし,それはむしろ普通のことである。人は自分の考えていることが自己矛盾に陥っていようとほとんど気にならないものである。だからこそ,日頃主張していることと,自分のやっていることが違っていても気にもしていないのである。
結局のところ,事実のみを重視した理科教育からつく学力も,受験的学力も,科学的なものの見方・考え方を養成するには役立たず,現在,将来の日本社会に対応できない学力であるといえよう