科学的なものの見方考え方1

長野県教文会議で発表した報告です。

以下報告
教科の中で科学的なものの見方考え方をどう教えるか
───理科教育の中で───
0.はじめに
【理科教育史の中に,「科学的なものの見方考え方」を教える授業はどのように位置づけられるか】
◆理科教育史概説──理科教育は自然科学を教える教科であるか──
理科教育には2つの潮流があった。
[理科は自然を教える教科であるという主張]
ひとつは,明治19年以後文部省が主張し続けてきた「理科は自然を教える教科であって,自然科学を教える教科ではない」というものである。この理論に基づく理科教育では,事実の観察を中心とすべきであると考えられたため,理論は教えなかった。従って「ものの見方・考え方」を教えることは問題にならなかった。この理科教育は「おもしろくない」ので不評であったが,そういう批判があればあるほど,この理科教育の推進者は理科教育の本旨に沿っていると考えたので,方針が変わることはなかった。
[理科は自然科学を教える教科であるという主張]
これに対して師範学校を中心とする野党的立場の人たちは「理科では自然科学を教えるべきだ」と主張した。この考えは戦後結成された《科学教育研究協議会》という反体制的な理科教育の研究会に引き継がれ,やがて文部省も,不完全ながらもこの考えを取り入れざるをえなくなった。そして,現場の声に押されてという面と,高度経済成長政策に適合する理科教育ということで,指導要領改訂において自然科学教育重視の姿勢を打ち出した。この主張は現場の教員に受け入れられ,定着したといえると思われる。(現在理科の教員の多くは「理科は自然科学を教える教科である」という主張を聞くと「なんでそんな当たり前のことをわざわざ主張するのだろう」と思うのが普通である)
理科教育が自然科学教育と位置付けられて,国民の科学的知識は向上しただろうか。ある程度まで向上したと考えることができる。しかし,その理科教育は科学の明らかにした大量の知識を教えようとしたことから,大量の理科嫌いの生徒を生み出した。
[理科では科学的思考を教えるべきだという主張]
これに対する反省から「知識そのものを教えるより《科学的なものの見方・考え方》を教える方が大切である」ということから,《探求の理科》がもてはやされるようになった。しかし,その《科学的なものの見方・考え方》というのは,一面的であったり,科学についての誤解にもとづいていたりしていたために,《探求の理科》を熱心にやればやるほど,生徒はますます理科が嫌いになるという結果をもたらした。《探求の理科》よりは,むしろ大量の知識を覚えさせる理科の授業の方がまだ害が少ないというべきであろう。
[理科嫌いの増加に歯止めをかける]
理科嫌いの増加に驚いた文部省の理科教育関係者は,生徒が理科を嫌う理由は「レベルの高いことを教えているため」であるとし,これを解決するために「もっと自然に触れさせ,事実のみを教え,理論を教えることをやめる」という方向を打ち出している。それで理科嫌いが減るだろうか。私は減らないだろうと思っている。
今の方針では,国民はいつまでたっても科学を身につけることができない。かといって,これまでと変わらない理科教育を続けても,科学を国民のものにすることはできない。科学の押し付けは,科学嫌いをますます増やし,科学的なものの見方考え方を教えるどころか,科学敵視の生徒,大人をますます増やす結果をもたらすだろうと思う。自然を教えようとしてもだめ,科学を教えようとしてもだめ,それではどうしたらいいだろうか。
[科学を楽しく学び,科学を自分のものにする授業は可能か]
本格的な科学を学ぶことは本来大変楽しいことである。本来楽しいことは楽し学ぶことができるはずである。私のやっている授業を紹介しながら,「科学をみんなのものに」することはどうすれば可能か,考えていきたいと思う。
1.ものの見方・考え方の教育は必要か
《正しいものの見方・考え方》というものはあるのだろうか。
ある人は《正しいものの見方・考え方》とは,《頭のよくなる特効薬》のようなもので,それを身につけるととたんにいろいろな問題が解けるようになると考えているようだ。そんな《頭のよくなる特効薬》があるのだろうか。そんなものを追い求めるのは,錬金術師が鉛などから金を作ろうとしたように,無駄な努力のように思われる。そんな努力をするよりも普通のことをきちんと学ぶことの方が大切であろう。
それでは《ものの見方・考え方》などというものはないと考えた方がいいのだろうか。
いや,「ない」と断定してしまうのも不適切であろう。われわれは,それまでにない《新しいものの見方・考え方》を身につけている人が,他の人々よりはるかによくものを見,ものを考えることができるようになったことを見てきている。ファラデーは電磁気現象の研究において,同時代の他の物理学者よりはるかに見通しがよく,多くの発見をすることができた。なぜだろうか。それはファラデーは電磁気現象に対する《ものの見方・考え方》が,当時の多くの物理学者と違っており,そのため普通と違う発想をすることができたためであると言われている。
 ある種の《ものの見方・考え方》は物事への見通しをよくし,研究を進める上での大きな指針になりうるのである。しかし,その《ものの見方・考え方》を《頭のよくなる特効薬》のように考えるならば,大きな誤りに陥るだろう。
模倣の時代にはものの見方・考え方は必要ない。しかし,変革の時代,創造性を要求される社会的条件のある時代には,《ものの見方・考え方》こそが決定的に重要になってくるのである。ファラデーの活躍した時代は電磁気学の変革の時代であった。なればこそ,ファラデーのような《新しいものの見方・考え方》が重要だったのである。今日のように,創造性が要求される時代には,《ものの見方・考え方》が大変重要になっているのである。
今井功著『電磁気学を考える』サイエンス社の序文
電磁流体力学の研究を始めたところ,自分の電磁気学の知識が役に立たなくて,ファラデーの論文に戻って理論の再構成をする必要に迫られた。
2.科学的なものの見方・考え方とは何か
《科学的》という言葉は,人ごとに違う意味で使っている,なかなか微妙なことばである。ここではまず,《科学的》という言葉がどういう意味で使われているか分類してみよう。そして,「科学的な考え方を身につけさせる」ためと称する理科教育が,《科学的》ということばの意味によってどんな違いが生じてきたかを紹介し,その問題点を指摘したいと思う。
①事実をもとに考えるのが科学的?
科学的認識はいかにして成立するのだろうか。この問題に対する答えとして「科学的認識は事実をもとにして生まれる」という考えがある。これは正しいだろうか。
事実をもとに考えれば間違えないだろうか。
事実をもとに考えようしていない人などいない。にもかかわらず,誤った判断をする人が多い。事実をもとに考えても誤謬に陥ることはいくらでもあるのである。科学史上のさまざまな失敗を調べてみても,間違えた人は,事実をもとにして考えなかったから間違えたわけではないことがわかる。
いくら事実だけをもとして考えても,間違えるときは間違えてしまう。事実から真理が出てくるわけではないのである。事実をもとにしてそれに対する解釈をすることなしに理論を作ることはできない。しかし,ひとつの事実の解釈の仕方は一通りではない。1つの事実の解釈は,何通りも考えることができるのが普通である。その解釈のうちどれが正しいかは,その事実そのものから決めることはできない。それを決めるのは別の実験である。
科学的認識は事実をもとにして生まれるのではない。
教師が「事実をもとに考えるのが科学的」と考え,それに基づき授業をすると,どういうことになるだろうか。事実だけを扱うなら,押し付けを排除することになるようにも思えるかもしれない。生徒は事実を示されると,そのひとつの事実をさまざまに解釈する。しかし,教師はただひとつの解釈を示す。ここにおいて,教師の考えを生徒押し付けるざるをえない。事実だけを教えるにしても,《なぜその事実を教えるか」というところで,その事実を重視するという考えを押し付けることになる。子供は自分の頭を使って考えれば教師の考えについていかれなくなる。
《事実をもとにして教える》という授業はその意図に反して,暗記勉強の強制という結果をもたらすのである。(現在も多くの理科の授業はそうである)このような授業では《科学的なものの見方・考え方》は身につかない。
②「なぜ?」と考えるのが科学的?
なぜ?と聞かれて自分の頭で考えて理由が説明できるような問題はどのくらいあるだろうか。きわめて少ない,ほとんどないといってよいくらいである。答えることができるのは,既にそういう問題と答えを知っている場合が大部分である。「なぜ?」を中心に授業を組み立てると予習してきたものは活躍できるが,そうでないものにとってはどうしようもない授業となる。予習してきて活躍できる者にとっても自分の頭を使って考えた喜びがあるわけでなく,知っている知識を発表しているだけである。予習してある者がいない場合は教師の説明を聞くだけの押し付けの授業となる。この授業も授業者の意図に反して,生徒にとっては覚えるしかない授業ということになる。
③正しい理論に基づいて考えるのが科学的?
「絶対確かな理論から出発して,絶対確かな推論を重ねていけば間違えない」という考え方がある。「おまえの考えは科学的でない」と言うときや「この考えは科学的だから正しい」などというときの科学的ということばはそういう意味で使われている。《科学的な考え方》というものがどこかにあって,その考え方で考えると正しい結論が出るというわけである。ここでいう《科学的な考え方》というのは《正しい考え方》といった意味である。ニュートンの『プリンキピア』などその書き方で書かれているようにも見える。
では,「絶対確かな事実をもとにして,絶対確かな推論を重ねていけば間違えない」と言ってよいだろうか。実は「絶対確かな事実をもとにして,絶対確かな推論を重ねていっても間違えてしまうことがいくらでもある」ということの発見によって,「真理であるかどうかは実験によって判定をすべきである」という近代科学の方法が確立したのである。いかに筋が通っていても,それだけでは真理とすることはできない。ニュートン力学にしても,筋が通っているから正しいのではなく,実験的に検証されたから正しいのである。実験抜きで「正しい理論に基づいて考えるのが科学的である」という考えは誤りである。
しかし,この教育は伝統的な受験教育のスタイルである。物理が受験科目として重要と考えられるようになる以前は,物理は暗記科目であった。その内容もバラバラな事実の列挙で,暗記するしかないものだった。物理が受験科目として重視されるようになるにつれて,「物理の学習では筋を通して理解することが大切である」と考えられるようになった。これは,バラバラな暗記科目だった頃から比べれば進歩であった。現在の受験向きの授業はこのスタイルでできている。
この教育は,他の方法に比べれば押し付けが少ないともいえ,ある種の生徒にとってはわかりやすく,それなりにおもしろいともいえるが,大部分の高校生に教える教育内容,教育方法としては無理があったというべきであろう。事実,このような教育内容になって以後,多くの生徒や大人が科学嫌いになった。