渡辺敏の研究

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板倉聖宣さんは渡辺敏の調査のために松本市大町市長野市を旅行し資料収集しました。そのときの調査ももとにして『かわりだねの科学者たち』の渡辺敏の伝記を書きました。
 渡辺敏は自由民権運動に熱心に取り組みましたが、運動は敗北しました。彼には3つの道が残されていました。あくまで運動を続けようとして決定的に撃滅されるか、運動をやめて反対側につくか。もうひとつの道が自由民権運動で学んだことを別の分野に生かすという道でした。渡辺敏のとったのは自由民権運動から学んだことを教育に生かす道でした。それが後で考えると最もよい道でした。板倉聖宣さんも学生運動で学んだことを教育研究に生かす道を取りました。私も70年代の全共闘運動の非常にエネルギーを浪費した無意味な闘争から道を探していましたが、仮説実験授業の研究が取るべき道だと確信しました。そしてその道が正しかったと言うことが今になってはっきりしたように思います。板倉聖宣さんの未完成の原稿のコピーです。当時はワープロはなく、手書きの原稿でした。板倉聖宣さんは当時北安曇郡教育会から招かれ、木崎夏季大学で渡辺敏について論じています。渡辺敏の名前の読み方は「はやし」です。渡辺敏のお孫さんからの聞き取りで確認しました。渡辺敏全集が長野市教育委員会から発行されていますが、そこには「さとし」と読むとされています。これは間違いです。
この板倉聖宣さんの書いた渡辺敏の伝記を読むと幕末とはどういう時代か、時代の変革期とは何かが非常に明確に浮き上がって来ます。