自己欺瞞はなぜいけないか

上田仮説サークルで発表しましたが、ほとんど受けなかった資料です。自分では気に入っているのですが。

上田仮説サークル内部資料
   自己欺瞞はなぜいけないか
        2001年5月4日
 自己欺瞞とは自分で自分をだますことである。自己欺瞞の一つの例としてイソップ寓話の「すっぱいぶどう」の話がある。ジャンプして届かなかったぶどうを「あれはどうせすっぱいぶどうだ」と(自分ではそれが嘘であることは百も承知で)して、キツネは自分を納得させようとした話である。
 これと同じようなことをたえずしている人が少なくない。○○○校に赴任して驚いたのは、この自己欺瞞に充ちた生き方をしている教師と生徒が相当数いることであった。クラスマッチではいわゆるスポーツが得意な生徒がわざとでたらめをやるのである。この心理は「まじめにやって負けたら惨めだ。惨めにならないためにはわざと下手にやればいい。真剣にやったわけではないから、負けても「自分が下手だったわけではない」という言い訳が出来る」というものである。
 このような自己欺瞞をしている人は少なくない。おそらくそうすることで傷つくことを避けているということなのだろう。このような心理で本当に愛し愛されたい人に愛の告白が出来なかったり、自分の本当にやりたい仕事に就けなかったり、離婚したいのに離婚できなかったりする人がいるのである。
 自己欺瞞は自分が傷つかないためによい方法だと思っているからこそ、自分で自分をだますことをしているのであるが、実際はこの自己欺瞞によって、傷つくよりはるかに大きな不幸を招いているのである。
 自己欺瞞を行う人は自分を信ずることが出来ない。自分が自分に嘘をついているのだから、自分自身は最初から信ずることが出来ない存在なのである。だから、自分の気持ちがいつもわからないということになる。自分が何者なのか、自分が何をしたいのかがわからない。したがってその言動も一貫したものにならない。そして、自分が信じられない人は人を信ずることもできない。人に対する信頼を持っていない人をだれが信頼するだろうか。人に信頼されなければ、その精神は安定することが出来ない。人とたえずトラブルを起こす人は、自分を信頼していないため人を信頼することが出来ず、そのため人に信頼されないからなのである。
 「すっぱいぶどう」に見られるような自己欺瞞を行う人は自分では自分が傷つくという不幸を避けるためにこのような自己欺瞞をやむを得ないことだと思っているが、そのためにより大きな不幸を背負い込まなければならなくなっていることに気がつかないのである。
 高尾利数はその著『イエスとは誰か』(NHKブックス)で、『マルコによる福音書』の批判的読解により、福音(よい知らせ)とはパウロの言うように「イエスの血による贖罪を信じ、自分の罪を悔い改め、イエスの復活によって永遠の生命の希望を持つ」ということではなく、「あのアッバー(とうちゃんほどの意味で、イエスは神のことをしばしばそう呼んだ)の支配がすでにやってきていて、われわれは無差別、無条件の祝福のうちにあるというのが、われわれのありさまであり、そのこと自体が良きおとずれである」ととらえるべきだと主張している。「福音を信じよ」と訳されているのは、厳密には誤訳で、(「福音」はドイツ語でいう三格なので「福音において信じよ」となる)「福音というものの広がりの中に身を投じて、それを自分の場として生きよ」と理解すべきものとする。すると「福音は信の対象ではなく、信頼して行為する根拠」ということになる。(『イエスとは誰か』67p)
『マルコによる福音書』には、イエスの行った病人を癒すという数々の奇跡の話が出てくる。これは今日のわれわれから見てどう理解したらいいのだろうか。イエスが神の子だから、奇跡を行ったのは当然だという考えもありうる。(キリスト教信者は大部分そう思っている)単なる作り話だと考えることもできる。しかし、これは本当にあった話だと考えてもおかしくない。
「私は、池見酉次郎氏の『心療内科』(中公新書)で報告されている数々のケースを思い出す。そこには、実に驚嘆すべき事例が豊富に挙げられている。そして、いかに多くの身体的機能麻痺が心因性のものであるかに驚かされる。(中略)当時の人々が受けていた心理的重圧のひどさを考えると、イエスのような人の心に触れ、その断固たる宣言に接した人々の心の重荷が解消され、それとともに身体的諸症状も癒されるということがあったとしても不思議はないし、事実そういう多くのケースが、イエスの奇跡物語の核として実在したのではないかと思うのである。」(『イエスとは誰か』109p)
心因性の病気というのは、基本的に自分を信ずることが出来ないということによるものではないだろうか。そうだとすれば、当時のファリサイ派の厳しい戒律の中で、自分が罪人であると思い、落ち込んでいた人たちはまさに自分を信ずることが出来なかった人たちであろう。その人たちがイエスと接し、イエスの生き方に触れ、アッバー(神=とうちゃく)の無差別、無条件の祝福の内にいると思ったときに、自己への信頼を取り戻し無上の幸福を感じたとしても当然のように思える。そしてその中には実際に病気が治ってしまう人も少なくなかったであろう。ここで肝心なことはパウロのように「福音を信じる」ということではなく、「イエスの生き方に触れる」ということであったと思われる。
 「イエスは「見ろ。大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(『マタイ』)と呼ばれていたらしい。」(『イエスとは誰か』90p)
 「イエスは一方において「大食漢で大酒飲み」などと言われるほど、おおらかであっけらかんとした生き方をしたが、他方においては現実をきわめて現実的に洞察した人物のようである」(『イエスとは誰か』92p)
ここに出てくるイエスの生き方は、自己欺瞞のない生き方を示しているように思われる。自己欺瞞のない生き方をしている人に接することによって、自分も自己欺瞞なしで生きられると感じたのではないだろうか。
 仮説実験授業をやることによってKH氏は「本当の自分に戻った、本当の自分のまま生きていていいんだ」と感じたと話している。小原茂巳氏は『授業を楽しむ子どもたち』で生活指導の要諦を「そのままの君でいいんだよ」ということであるとしている。
 現代人の多くが「そのままの自分で生きられない」と感じ、無理して生きている。学校で授業を受ける子どもたちも無理をし努力しなければいけないと思っている。(「私は無理をしているんだ」という思いを持っている人がトラブルをしばしば起こすことはよく知られている)仮説実験授業に触れた生徒や教師が感じるある種の解放感は、「別に無理して生きなくてもいいんだ」「このままの自分でいいんだ」というものである。
 「そのままでは人間進歩がない」と思う人もいるかも知れない。しかし、現在の自分を否定してしまえば、自分を進歩させることは出来ない。人間は信じてもいない自分を進歩させることなどできないのである。進歩できるのは自分を信じているものだけである。「このままの自分でいい」という安心感があって初めて人間は自分を進歩させることが出来るのである。
 今日、この「自分を信じることが出来ない子ども、親」が非常にたくさんいるのではないだろうか。そういう子どもや親はたえずトラブルを起こしているが、自分がなぜそんなにトラブルを起こすのかも自覚していないように思える。こうした問題をどうすれば解決できるだろうか。この解決のための管制高地は「自己欺瞞をやめ、自分を信じられるようになる」ということだと思う。
 イエスの時代にはイエスの言動によって民衆は自己欺瞞をやめ、解放され、生き方の原則が確立した。
 今日の教師はこの人間不信自己欺瞞の蔓延した社会、人々に直面して何をどうしたらいいのだろうか。
 仮説実験授業を受ける中で子どもたちは授業がよくわかり楽しいというだけでなく、本当の自分をそのまま出していいということを体得していく。「仮説実験授業がたのしい」ということには「おもしろい」という言い方では言い尽くせない意味があるのである。自己欺瞞のかたまりの生徒は最初は仮説実験授業も受け付けないかも知れない。しかし、仮説実験授業を受け続ける中で少しずつ自分に対する信頼を持つようになってくるように思われる。また、仮説実験授業をする教師は自己欺瞞なしで生きている人が多い。(自己欺瞞的な人は仮説実験授業をし続けることが難しい)自分を信じている人は人も信じるので生徒は次第に不信感のかたまりの人間関係より自分が快適と感じる人間関係を大切にしようと思うようになる。生徒が自己欺瞞をやめ、自分を信じられるようになるためには「仮説実験授業の中で自分が信じられるようになる」ということと「自分を信じている教師に接する」こととが、大変役立っているのではないだろうか。
まとめ
 自己欺瞞は自己不信を引き起こす。
 自己不信は人に対する不信感を引き起こす。
人を信じていない人は適切な人間関係を築けない。
エスは人々の心に自己に対する信頼を呼び覚ました。
仮説実験授業は自己欺瞞をやめさせ、よく生きることを可能にさせる。

参考文献
 『娘の結婚運は父親で決まる』岩月謙司著 NHKブックス
 『イエスとは誰か』     高尾利数著 NHKブックス