平和運動・平和教育で考えるべきこと

牧衷さんが1988年1月5日に仮説実験授業研究会冬の大会江ノ島大会でやった講演の一部を紹介します。講演全体は『牧衷連続講座記録集』Ⅳに収録されています。
【要旨】
情緒的な反戦運動では戦争は防げない。
ベトナム戦争以後戦争は割に合わなくなった。
循環性の不況は今もある。

[以下講演]

情緒的な反戦運動では戦争は防げない

 実は戦後の日本に農地改革をもたらしてくれた人達と言うのは占領軍の中にいたニューディール派でございます。その人達が日本でもその政策を実践しようとしたのです。これは日本だけでなくてイギリスでもそうでした。イギリスの労働党の政策なんていうのは典型的にそうです。ドイツだってそう。みんなそれでいった。日本もそうです。高度成長期までそれが続くわけです。
 そういうような歴史の経験というようなものを考えていかないと,なかなか本格的な平和教育というようなものはできないのです。ほとんど道義的な反戦の運動だけでは戦争を止め得ないというのは,これはもう歴史的事実で,日本の場合でもそうです。まことに見事な反戦の議論がございます。日露戦争の時の内村鑑三さんたちの議論というようなものは,道義的に見れば今から見たって立派なものです。しかしそれでは勝てないんです。結局戦争が起こってしまうんですからね。いくら議論をやって後の人に「あの人は偉かった」ってほめられたってしょうがないんです。その時に現実に戦争を止める力を持った議論を展開できなければ,後でいくらほめられてもものの役には立ちません。そういう意味では社会的な発言はまことに結果論の世界でございまして,勝たなければいけない。負ければ後の人にどんなに評価されようがだめなのです。  そういうことが現在の平和教育でちゃんと捉えられているのかというとそうとは思えない。非常に情緒的な反戦教育だけがある。それではことがあった時に,なかなかうまく対応できない。「不景気になると戦争が起こる」「戦争が起こるときは不景気だ」という原則はずーっと続くのです。「戦争が不景気を回復する1次的な解決策になる」というのもずーっと続きます。
 もう1つ平和教育で押さえておくのは,実は1950年の朝鮮戦争の後,ちょっとばかり違ったことになってきたということなんです。実はベトナム戦争の後もです。ベトナム戦争はちょうどやっぱり不景気の時に起こりました。日本はなべ底景気がベトナム特需でいっぺんに盛り上がったなんて話になりますけれども,アメリカでは,失業率も減らなきゃ,GNPも増えない。財政赤字だけ膨大に増えました。なぜかっていいますと,その時すでにアメリカのような国にとってはベトナムとの戦争も片手間の戦争にしかすぎない。アメリカ経済全体を動かすようなインパクトのある戦争というと,これはもっとでかい戦争です。ところがもっとでかい戦争をやれば,人類全滅であることはわかっているんです。つまり核兵器の存在です。兵器があまりにも発達したために戦争がやりづらくなったいう,これはきわめて弁証論的な考え方ですが,実際にそういうことはある。こういうところは平和問題を熱心に論じられる方には随分耳障りなことだろうと思いますが,それは現実として誰もが認めなれりゃならない。その結果片手間戦争しかできなくなったものだから戦争がすでに不景気からの脱出策ではなくなってしまったのです。
 日本でもそうです。そういうことがちゃんと心得られていて初めて,軍事増強とかそういうものに対して「なんたる馬鹿なことをするのか」ということが言える。それが言えないと情念にしか寄りかかれない。そうなるといろいろな社会的な困難なんかが起こった時に腰砕けになってしまう。
 高校の社会科で「循環性の恐慌」というのは書いてありますか?どなたか社会科やってらっしゃる方でご存知の方?

───経済学部では循環性の恐慌というのは1929年の恐慌以降は当て   はまらないと言われています。

 それが実は当てはまります。現在では経済学者はほぼ認めてます。1時期「ケインズ政策が取りいれられたから不況は来ないんだ」という理論がはやったことがあるんですが,どうしてどうしてそうじゃない。現在も循環性の不況が繰り返されてます。
 戦争が割に合わないものになったというのは何も資本主義社会ばかりでなくて社会主義社会でもそうです。アフガニスタンなんて手かせ,足かせ,首かせです。ソ連経済を圧迫していることおびただしいんです。はっきり言っちゃうとソ連経済はしっかりしてもらわないと困る。ガタガタになっちゃうと日本にとっては安全保障上危険極まりない。実は私はペレストロイカは絶対に支持する。成功してくれないと困るのでゴルバチョフさんのファンでございます。一生懸命陰ながら声援を送っております。