文化祭挨拶平和について

文化祭開祭式挨拶原稿

 生徒会役員から挨拶を頼まれました。今年の文化祭のテーマは「平和」ということで、挨拶の中で平和に触れてほしいという要望でした。

挨拶
 いよいよ文化祭ですね。今日まで準備にとりくんできたみなさんに敬意を表したいと思います。

個と集団
 「原子と原子の集団は別の法則に従っている。」ということを理解しなければ物理学は理解できません。それと同様に「個々の人間と人間の集団は別の法則に従っている。」ということを知ることもそれに劣らず大切なことです。個々の人間がどう考え行動するかをいくら調べても人間の集団がどう考え行動するかはわかりません。たとえば、犯罪少年を取り調べている警察官や、家庭裁判所の調査官がしばしば、どうしてこんなに気の弱い子がこんな凶暴な犯罪を起こすのか不思議だと言います。個人としては気が弱くても集団では全然違ってしまう。これが個々の人間と人間の集団の違いです。物理学で原子と原子の集団が別の法則に従うということは良く知られていますが、社会の問題でもこのことをよく把握しておくことが大切です。
 文化祭を企画・運営しているのは、個々の生徒ではなく、生徒の集団です。犯罪少年はひとりではとてもできないほどの悪いことを集団でやってしまうのですが、よいことをやる場合も個々の生徒がやることが1000人分集まって文化祭を動かしているのではありません。集団の力は1000人いれば1000倍の力を発揮するのではありません。集団がうまく機能すると1万倍、100万倍もの力を発揮するのです。
 文化祭を通じて、集団の力で意義あることを成し遂げるというなかなか他ではできない貴重な体験をして、その中で社会的な人間としての成長を遂げることを期待しています。

平和について
 さて、今年の文化祭のテーマは平和ということです。ここで平和について考えてみたいと思います。
 毎年8月15日近くになると太平洋戦争を振り返る新聞記事やテレビの特集番組が組まれます。しかし、世の中は次第に過去の戦争への関心をなくしてきているようにも思えます。これから起こる可能性が高い、現在起きているのは民族問題による紛争です。この「民族」という言葉と「民主主義」という言葉をキーワードにして平和について考えてみたいと思います。
 民族とは何かを調べようとしてまず世界史小事典を読んでみました。しかし、私には何が書いてあるのかよく理解できませんでした。
そうした場合私がよくやる調べる方法をご紹介します。それは和英辞典を引いてみるという方法です。実は、われわれが使っていることばのかなりの部分が明治以後に翻訳語として作られた言葉です。「個人」とか、「社会」とか、「恋愛」とかいう言葉は江戸時代までの日本語にはなかった言葉で、明治になってから英語その他の外国語から翻訳されて作られた言葉です。
 「民族」を和英辞典で調べるとNationと出ています。「Nationというのは国家のことじゃなかったのか」と思って今度はNationを英和辞典で調べると、国民、民族、国民国家というような意味が出ています。これはどういうことなんでしょうか。
 実は民族というのは国民国家の成立とともに生まれた概念です。
百年戦争というイギリスとフランスの百年間にわたる戦争を通じて、それぞれイギリス国民、フランス国民という意識ができました。敵ができて初めて国民意識ができたのです。
 日本でも江戸時代の終わりころになって外国という敵が出てきたので、初めて日本国民という意識が出てきました。それまでの日本人は自分が日本国民であるとは思っていませんでした。俺は信濃の人間だ。俺は三河の人間だ。おれは薩摩の人間だという意識はあったけれども、日本国民という意識はありませんでした。黒船が来て敵がいることがわかったので急に日本国民という意識が出てきたのです。これはクラス対抗のクラスマッチをやるとクラスがまとまるのと同じことです。クラスマッチでクラスがまとまるのはいいことですが、敵がいるために国民がまとまることはいいかどうか慎重に考えなければなりません。明治維新になって早速出てくるのが征韓論です。韓国を征服しろというのです。なぜそんなことを言い出したのでしょうか。それは敵を作ることで国民がまとまるということだったのです。
 少し前まで韓国は日本を敵視していました。何かというと日本を非難する。これは韓国が日本を敵視することで国民国家となろうとしていたということなのです。ということがわかれば言ってくることにいちいち目くじらを立てることは愚の骨頂ということがわかります。その後韓国の日本たたきをしなくなりました。韓国が国民国家として成熟してきたのです。日本を敵視することで国民をまとめようとする必要がなくなったのです。
 最近では中国が日本をやたらに攻撃しました。それにいちいち目くじらを立てた人もいましたが、中国も次第にそのトーンが下がってきました。要するに、国民国家が成立するときに敵を作り出すことで国民意識を作ろうということなのであって、そういうときにいちいち目くじらを立てるなということになります。
 中世から近代に移行するとき、民族という概念はばらばらのものをひとつにする概念でした。今や民族という概念は一つであるべきものをバラバラにする概念です。戦争しなくてよいところに戦争を引き起こす概念です。
 今、民族や国家を強調する人がいたら、それは世の中を戦争の方向に持っていこうとしているのだと考えなければいけないのではないかと思います。

民主主義と憲法
 次に、民主主義と平和の問題を考えたいと思います。民主主義が否定されたところに戦争が始まるという考え方があります。しかし、実際の近代の戦争は国民の支持がないと不可能です。アメリカがイラクに戦争をしかけたとき、アメリカのブッシュ大統領の支持率は9割近くになりました。敵ができると国民は団結するのです。ブッシュ大統領が戦争をしようとして、アメリカ国民はいやいやながらそれに従ったのではないのです。ブッシュ大統領は戦争しないと決めることはアメリカ国民が許さなかったのです。
 日本の前回の戦争はどうだったのでしょうか。「国民は戦争に反対だったけれども一部軍部に戦争に追い込まれた」などという人がいます。事実をみるとそう簡単ではありません。
 大東亜戦争のとき、あとで「本当は戦争に反対だった」という人がいます。でもそのときは戦争に賛成したのです。最近では麻生総理大臣が「郵政民営化に本当は反対だった。」と言って顰蹙を買いました。でも、そのときは反対しなかったのです。なぜ反対しなかったのでしょうか。本当は反対だったと後で言ってもそのとき賛成していれば歴史はその方向に進んでしまいます。
 「民主的に決めれば平和が守られる」とは限りません。何でも民主的に決めればいいかというとそうはいえないのです。「戦争をする」ということを民主的に決めてしまうことがありうる、「人権侵害をする」ということを民主的に決めてしまうことがありうる。とんでもない決定をする可能性が十分あるのです。民主的に決めればなんでもいいかというとそうではないのです。実は、そのために憲法があるのです。憲法ではそういうことをそもそも議題にしてはいけないと規定しているのです。民主主義の暴走を押さえるために憲法が必要なのです。

 平和について考えるためのきっかけにしてもらえればと思います。