創造性を育てる教育2

すぐれた先入観が創造性のもと

 「創造性が大切」と主張する人は、しばしば「自分の頭で考えることが大切である」という。しかし、日本人は自分の頭で考えて解剖学を築くことも落下の法則に到達することもできなかった。実際、多少なりとも自分の頭で考えようとしたことがある人は、自分の頭で考えることがいかに難しいか、また自分の頭でいい考えを思いつくことがいかに難しいかに気づかざるを得ない。「自分の頭で考えろ」という忠告は創造的な人間を育てるためには有害無益である。
独創的科学者はどのようにして独創的になることができたのだろうか。彼らが何ものにもとらわれずに考えようとしたからだろうか。そうではない。むしろ彼らは大いなる先入観にとらわれて考えた。しかし、その先入観は当時の多くの人々がとらわれていた常識的先入観とは異なっていた。彼らはすぐれた成果をあげた人の考え方を学ぶことによって多くの人たちと異なる常識を持つようになった。彼らが独創的になったのは独創的な人を模倣したためなのである。創造性ある人の模倣が新たな創造を生んだのである。

ガリレオはいかにして慣性の法則に到達したか
    ── 地動説と原子論という先入観

 ガリレオ・ガリレイはものが動くのには原因はいらないと考えた。(慣性の法則)これは当時の「ものに力を加えれば動く、力を加えるのをやめれば止まる。」という常識に反した考え方だった。なぜガリレオは当時の常識に反したことを考えることができたのだろうか。それはガリレオが地動説と原子論という当時の多くの学者と違う常識を持っていたからである。
 ガリレオは宇宙のことを考えた。天体は常に動いている。動いていることが当たり前である。動いているものが当たり前のものに動いている理由を説明する必要はない。それなら、天体の一つである地球も動いていても不思議ではないし地球が動く理由を説明する必要もない。
 ガリレオは原子のことを考えた。原子はいつも動いている。動いていることが当たり前の状態である。それなら、原子が動いている理由を説明する必要はない。
 原子という極微の世界から、宇宙という大きい世界まで見渡してみると、ものはすべて動いていることが当たり前である。われわれが知らず知らずの内に「静止が正常」と思っているのは、宇宙の中の非常に特殊な世界、日常の世界を見てそう思っているにすぎない。それなら、われわれが目にするものも動くために理由を考える必要はないではないか。
 ガリレオは原子論と地動説という多くの人と異なる常識をもとに考えることによって慣性の法則に楽々と到達した。このような常識を持っていない者にとっては慣性の法則は理解困難な法則である。しかし原子論や地動説を常識として持っている者にとっては慣性の法則は当たり前の法則である。

古い理論に基づいた新しい主張

 注意すべきはこの原子論と地動説が実は古い学説であるということである。古代ギリシャアリスタルコスがすでに地動説を主張していた。コペルニクスはその説を少し修正して『天体の回転について』を著した。ガリレオはそういう古い学説である地動説を学んだ。またガリレオ古代ギリシャデモクリトス、エピキュロス、アルキメデスなどの原子論を学んだ。ちょうどその頃、アルキメデスなどの著書がラテン語に翻訳されたのでこれらの古い理論を学ぶことが出来た。ガリレオの考えるもとになった新しい常識というのは、実は古い学説の学習によって身につけた常識だったのである。
 「ガリレオは、当時権威とされていたアリストテレスの本に書いてあることを信ずることなく、自分で実験したことのみを信ずる態度で研究したので真理に到達することができた」などと書いてある本がある。しかし、そのような説明は事実に反する。ガリレオは自分の頭で考えたのではなく、他人の頭で考えたのである。ただその他人の頭というのが多くの人と異なる常識を持っている人の頭だったのである。ガリレオは「誰を模倣すべきか」という判断において独創的であった。そして、自分が模倣すべきと考えた人の考えを徹底的に模倣したからこそ独創的な研究ができたのである。新しいことを生み出すには古い理論を学ぶことが有効である場合が多い。
(*註1 改革者はしばしば新しい主張をするために「昔に帰れ」というスローガンを掲げる。たとえば江戸時代の儒学では古学派の学者(荻生徂徠、伊藤仁斉ら)が「昔に帰れ」という主張をした。古学派は古い権威を持ち出して新しい主張をしたのである。明治維新で実現したのは王政復古である。王政復古だから世の中が平安時代の昔のようになっただろうか。いや、王政復古の中身は新しい時代の到来である。ルネッサンスというのは「ギリシャの昔に帰れ」という運動である。しかしその結果生まれた文芸は新しい時代のものである。)

 
よい先入観に基づくイメージの重要性

 ボイルシャルルの法則を学んでも、イメージがなければ式を覚えて数値を式に当てはめる訓練をするしかない。これでは学習の動機は生じない。しかし、気体を動きまわるつぶの集まりとしてイメージできるようになれば、ボイルシャルルの法則が成り立つことは自明のことにしか思えなくなってしまう。ボイルシャルルの法則を理解させるには問題演習よりも、イメージ作りの方が有効である。イメージがあれば、人生のあらゆる場面で、イメージが動き出して頭が自然に働きだしてしまう。創造的な人間とはこのような人間なのである。

学習抜きの創造性論議は不毛

 もっとも創造的な科学者でもその研究時間の9割以上は他人の論文を読んでいる(学習している)時間である。学習(徹底的な模倣)なしに創造はあり得ない。
 現在、社会が独創的な人間を求めているということは、「誰を模倣すべきか」ということを問題とすべき時代が来ているということである。創造性ある人間を育てる最良の方法は創造的に生きている教師に教わることであろう。非創造的な教師が「創造性を伸ばすべきだ」という主張をするというのは非常にナンセンスである。そのような主張をするのではなく、自分自身が、創造的に考え行動していることを生徒に見せていくべきなのである。創造的であるためには教師自身も学ばなければならない。

結論
 ①創造性を育てるにはすぐれた先入観を与えることが必要である。
 ②いかなる先入観がすぐれた先入観なのかについては研究が必要である。
 ③創造性を伸ばしたいと願う生徒は、すぐれたものを学ぶことが必要である。学ぶことをおろそかにして創造性が育つことはあり得ない。
 ④生徒の創造性を伸ばそうと思う教師は自分自身の創造性を伸ばさなければならない。