ノーベル賞受賞者を自分の仲間のように感じる

以下の文章は『たのしい授業』2001年1月号の記事を読んで書いて『たのしい授業』編集委員会に投稿したものです。残念ながら掲載されませんでした。今日読み返してみると発表の価値ありと考え、ブログに掲載します。白川さんの名前以外はイニシャルにさせていただきました。
以下投稿原稿(一部加筆訂正)

       『たのしい授業』2001年1月号
「白川秀樹さんのノーベル賞受賞をめぐって」を読んで

 『たのしい授業』1月号に白川秀樹さんのノーベル賞受賞を祝ってクラスの生徒とともに授業記録を持って白川さん宅を訪問したというISさんの記事が載っていました。ISさんの行動力に感動しました。しかし、このISさんが白川さんを訪問したということにはISさんの行動力のすばらしさというよりも、もっと大きなことが含まれているように思います。マスコミ関係の人ならば、このくらいの行動力は当たり前でしょう。教師がマスコミ関係者と同等の行動力を示したからと言ってそれ自体が評価の対象になるとも思えません。
 ISさんはなぜ、こんな行動力があるのでしょうか。
 私は、それは仮説実験授業関係者に共通した感覚によるものだと思います。多くの人はノーベル賞受賞者を雲の上の存在と感じています。スーパーマンみたいなものです。天才中の天才が受賞者になれる。自分とかけ離れた存在であるが故にマスコミが追いかける対象ともなり、その記事が読まれることにもなるのでしょう。
 ところが仮説実験授業をする先生はノーベル賞受賞者を雲の上の存在とは思っていません。それどころか自分の仲間だと思っています。白川さんを雲の上の存在ではなく、自分が日々やっている仕事(仮説実験授業)と同じようなことをやっている人だと感じているのです。だからこそ、自分の仲間が世間から注目されたときそれを祝いに訪問することがごくごく当たり前のこととしか感じられなかったのでしょう。ISさんはマスコミ関係者が白川さんを追いかけるときの感覚とは全く違った感覚で訪問したのだと思います。
 それは、ISさんのクラスの子どもたちも同じことです。子どもたちは白川さんがすごい科学者なんだと感じていますが、それは自分たちとかけ離れたすごい科学者なのではなく、自分たちと同じようにすごい科学者と感じているように思われます。「ぼくは科学が好きです。だから白川さんが化学が好きなのもわかる気がします」(MS)「私も白川さんみたいなりっぱな人になりたいと思いました」(KK)なんて文を読むと、白川さんと自分が全く同格と感じていることがわかります。
 今回のISさんの行動は決して突飛なものや、目立ちたがりやのものではなく、ISさんが仮説実験授業をやる中でごく自然に身につけた感覚を行動に移しただけと言っていいと思います。全国には仮説実験授業をする先生、仮説実験授業をたのしむ子どもたちがたくさんいます。その多くの人たちもISさんと同じような感覚を持ち、同様な行動力を示しているのではないでしょうか。

 高校時代に仮説実験授業を受けたある大学生が、大学の講義、教育を、「大科学者の発見が自分たちも出来るのだと感じさせるように教えてくれない」と批判していたことがあります。仮説実験授業を受けたことがない人にはこのような批判をすることは思いつきもしないだろうと思います。仮説実験授業を受けたことがある人は自分も大科学者と同じように法則を発見できると思っているので、その感覚からすると大部分の大学教育は満足できないものになっているということなのでしょう。(その大学生は満足できない大学教育とは無関係に研究を進めて研究者として独り立ちしています)
 高校で仮説実験授業を受けた生徒が大学に進学しさらに大学院で研究するようになってから、しばしば「もう一度仮説実験授業を受けたい」とよく言ってきます。これは、どういうことなのでしょうか。普通に考えれば仮説実験授業で学んだことはもうとっくに卒業してそれよりレベルの高いことを研究しているのだから、もう一度仮説実験授業を受けたいなどとは言わないはずです。高校の(小中学校でも)普通に学んだことについて大学院生がもう一度授業を受けたいなどとは思うことはないでしょう。かけ算の勉強はかけ算が出来るようになれば卒業です。しかし仮説実験授業には卒業がないのです。研究の最前線に出たとき使う考え方は仮説実験授業の考え方です。また、いろいろな仕事の中で問題解決するとき使う考え方も仮説実験授業の考え方です。仮説実験授業の考え方は一生使い続けても、これで卒業ということはない考え方なのです。なればこそ、大学院生が仮説実験授業を受けたいということになるのです。
 このことは、仮説実験授業が他の授業と際立って違うということを示していると思います。仮説実験授業を受けるとその中で過去の大科学者が取り組んだのと同じような問題に取り組むことになります。そして驚くべきことに、授業の中で過去の大科学者が考え出したのと同じことを考え出す生徒がたくさん出てくるのです。仮説実験授業を受けているといつの間にか大科学者と自分が同等と感じられるようになってしまうのです。
 これは大変なことではないでしょうか。実際は大したことないのに自分が大科学者と同等と思ってしまうなんてことはまずいことではないでしょうか。困ったことにならないでしょうか。幸いなことに仮説実験授業を受けたために自分を過大評価してしまい困ったことになったという人はいないようです。それどころか、仮説実験授業を受けた人の多くは、自分が大科学者と同等と感じているために、人生の場面場面において力強い行動力を発揮できるようになっているように思われます。ISさん以外にも行動力のある人は仮説実験授業研究会の中にたくさんいます。その行動力はもともと持っていたものというより、仮説実験授業をやる中で自己評価が高くなり、その結果として身につけたものではないかと思います。
 仮説実験授業を受けた生徒が自分のことを科学者と同等と感じることは過大評価ではありません。適切な評価と言うべきです。仮説実験授業を受けた人は実際にすぐれた科学者と同等なのですから。

 これまでのノーベル賞受賞は社会的事件であり、それが教育問題と結びつけられるときにはエリート教育、秀才の教育をどうするかという議論となるものでした。今回の白川さんのノーベル賞受賞で、普通の子どもたちが自分たちと同じようなことをしている人としてノーベル賞受賞者に接することができました。これは研究と教育の結びつきを提唱してきた仮説実験授業研究会の研究の成果の一端ということが出来るでしょう。
 ノーベル賞受賞者は祭り上げられるべき存在ではありません。われわれの仲間です。そう感じる時代が来たと感じさせるISさんとそのクラスの子どもたちの行動でした。