大局観をどう養うか

牧衷さんの談話を一部紹介します。

牧衷談話「仮説実験授業と民主主義」1984年年末の板倉式発想法の会にて
『教育改革の展望』第6集に収録 現在『牧衷連続講座記録集』Ⅲに収録

以下談話
18.大局観による判断

 僕は大事だなと思ったのは人間はいろいろな判断する時に決してすべてのことをわかって判断するんじゃない。科学というのは、さいわいなことにいろんな要素をすべて列挙出来て、そのうえで考えることが出来るよう条件を整備することはできるけれど、社会的現象に対しては我々が日常の生活の行動で身の振り方を決めるという時にはその要素が全部わかるなんてありえないですね。「誰と結婚したらいいか」なんて結婚してみなければわからないです。それは山勘で決めるしか仕方がないことです。山勘の悪い奴は人生でも失敗しちゃうんです。山勘のいい奴は人生で成功できる。やっぱり自分の教えた子供達は人生に成功してほしい。金持ちになるとかいうのじゃなくて成功してほしい。そうすればやっぱり生活のいろんな行動を考える時だって山勘のよく当たる人間をこしらえておかなきゃ困るね。
 そういう山勘決めるのに何が大事かというと、大局観といいますか、「大まかにいうとこういうことだ」という大局観を知っていればまず間違えない。これは将棋の実力ある人達はそうですね。彼らはあらゆる定跡を覚えているけれど指していくとよくわからなくなる時がある。その時彼らは何で指すかというと、盤の全体を見渡して「私の大局観から見てこれで損はないと思う」という手を指すんです。「なぜそうしたんですか」と聞かれたら「大局から見てそうです」「形から見てそうです」とかね、彼らはプロですから大局からやっていって間違えないんです。ですから将棋や碁のようにあんな限られた条件しかない理詰めのものでさえそうなんですから、ましてもっと複雑な人生で僕らが当面する問題ではやっぱり大局観がしっかりしていないとだめなんです。「大体こうだろう」と決めていく決め方は割合に当たるというのが人生では非常に大事でそれがないとうまく渡って行かれなくてすぐ脱落したり、社会から落ちこぼれちゃったり疎外されたりするわけです。
 その大局観みたいなものをつかむ訓練みたいなものがやっぱりたくさん必要なんじゃないか。それにはどういう訓練をしたらいいかというと、「自分で自分の行動を律することわざを作りなさい」ということを言っているんです。「科学の法則なんかでも自分の言葉で言い直してごらんなさい」僕のさっきの慣性の法則の理解の仕方、それはちょっと違うんじゃないかというご意見がありました。それは確かに違うのです。一面的なんです。非常に一面的なんですけど、それは僕が作ったからそうなんです。全員に納得させるためじゃなくて、僕は僕が物理学ができるようになるために自分の定義を作るんです。それは自分の言葉で書いてなければ使えないです。「何をもってわかったとするか」という仮説実験授業の基準が「そのことが他人に説明できる」「その原理を利用して問題を解決できる」ということですね。それはもちろんそれでいいんですけれども、それと一緒に僕は「その法則を自分の言葉で言い表わすことができるようになった時」ということを基準と考えています。ほとんど同義です。それはとっても一面的です。というのは自分のそれに対する先入観が一面的ですから、それがうち破られた時にはそっちの方向ばかりにいきますね。そればっかり強調するから一面的になる。自分の定義は万人に対していつも正確とは限らない。しかし自分に対しては非常に正確なんです。そういう定義を持ったならばいいんじゃないかというのが僕の持論でして、もともと定義というのはそういうものじゃないでしょうか。
 いくら僕だって、こういった席では僕の定義はこれですと言いますけれど「慣性の法則の定義を書きなさい」と言われたら教科書に書いてある通りの定義を書きますよ。そうしなければ本当に正確ではないんですから、僕と同じようなものの見方をしていた人間にとっては僕の定義の方が腑に落ちるでしょうけど、そういう人ばかりじゃないわけですから。ですから誰にでも通用するような定義を書こうとするとどこから突っ込まれても間違いのない定義を書かなければいけない。だから定義はつまらなくなる。個性がなくなっちゃう。科学嫌いができるひとつの原因ですね。だけど自分の言葉で教科書を書き直すということを始めるとそれはもう個性だらけのものになりますから「科学は没個性だ」なんて言われなくて済むようになるんです。
 でも「自分にだけ通用する話なんだ」ということをよく知っていないと困りますね。それが万人に対して通用する定義だと主張するようになると困りますね。それは間違いのもとになります。僕自身が静止と運動の間に万里の長城を築いていた。これは質的に違うものだと思っていたからあの定義が僕に対していいってことで、そういうふうに思っていなかった人は「そんな定義なんてするまでもなく当り前のことだ」「あいつは何でそんなことを言うのか全然わからん」ということになったりします。僕自身がそれによってわかればいいんで個人用定義が出来るようにならないとなかなか使い物にならないのも事実だと思いま