詩の歴史から戦後精神を見る

牧衷さんの談話の一部を紹介します。
以下談話
 僕の中で何かが変わったな、僕の感性の革命があるんですよ。見渡す限りの焼け野原、何もなくなっちゃうんですね。それが実に あっけらかんとしているわけです。空が青くて 日本的にじめじめしたものがなくなっちゃった感じで、その時の解放感とか自由、日本が日本でなくなった。ひょっとしたらスペインだという感じ、それがすごくあるんですよ。それはある意味で僕と同年代の世代にあるものなんで、戦後の世界のディテールを思い出せば陰惨極まるものですけれども、全体の印象はすばらしいんです。
 焼け跡の景色というのは。茨木のり子は僕の3歳上ですけれども、茨木のり子の詩に「焼け跡で目玉を拾った」という詩があるんです。透明な目玉で遠近法の測定の確かな目玉だという詩なんです。彼女もそういう感じを持ったんじゃないか。そこで何か遠近法がひっくり返るんですよ。それまで僕のまわりにあった日本が胡散霧消しちゃうんですよ。あとに焼け跡が残る。何にもないから何でもあるんですね。それでまったくの自由なんだだという解放感。
 谷川俊太郎は僕より3歳下だけど、谷川俊太郎の詩の中にも非常に透明なカラッとしたところがある。ジメジメしていない。だから叙情の質が変わるんだよあの時。それはすごく僕には新鮮だった。その時に僕の仲のいい詩人の花田栄三というのがそれでしてね。その時に、喪失感につながる連中とはどうも話が合わないんですよ。
 多くの人がそこをしゃべらないのは僕はメチャクチャ間違いだと思う。そこで日本の文化がほんとに変わるんだもの。戦前の詩と戦後の詩はほんとに違うんだから。詩の話でもそういう話になればおもしろいんだけどね。一つにはジメジメしなくなったということ。戦前の詩でユーモアを探すのが大変だったんですね。いること入るんですが。山之口貘なんて大家がいましたけどね。
 でもそれがほんとに出てくるのは戦後の若い人の詩にそういうのが多くなるんです。若いというのは当時の若い世代、僕の世代ですね。その連中は主情的になれないんです。自分をどこかで突っ放して見ている。「とは言うもののねー」というのがどこかにある。だから、のめり込めない。そこが違うのかも知れない。
 僕は戦後の世界って嫌いじゃないんですよ。「大変だ、大変」だという話ばかり出てくるでしょ。後世の人が記録を見てそこから生活の具体を調べ上げたらなんとも悲惨ですよ。やっぱりそれはそれで覚悟を決めるんですが、要するにほんとに腹が減ったら家族の絆なんてなくなるんです。そういう思いするでしょ。「そんなことの原因になるようなものはもう許せない」というのがあるから、そういう覚悟みたいなものはありますね。腹が減ったら家族の絆もへったくれもあるかという、剥き出しの個としての生物としての人間に自分に還元されてしまうという状況を見ちゃうと、一方で度胸もつくんですね。「本来人間てこういうものだ」という度胸がついちゃうんですね。陰惨な世界だったんだけど、一方でものすごく明るい世界だった。
 その時に受けたそういうものは歴史に出て来ないですからね、でも僕は詩の歴史をやるとそのことがはっきり出てくると思っているんです。明らかに感性が変わる。文化革命なんですよ。