わかりやすい文章はいかにあるべきか

 「どうすればわかりやすい文章が書けるか」という問題意識を持っています。1月31日の上田仮説サークルでそういう話をしたら、昨年11月にやった「牧衷式発想法セミナーの案内がわかりやすい文章だった」と言ってくれる人がいました。そう言われてうれしくなってその時の案内を読み直してみました。なるほどわかりやすく書かれているように思います。改めてこのブログに再録して、見てもらおうと思います。
「この会の目指していることは何か」がよく伝わる文章になっていたでしょうか。
以下、昨年11月のセミナーの要項の抜粋です。

牧衷式発想法セミナー
仮説実験授業と自発性の組織論
戦後精神・映画・現状分析・教育
 今回のセミナーでは、牧衷さんの講演、長谷川智子さんを通じて、仮説実験授業で実現している楽しさを人生の他の部分に拡張しより楽しく生きるためにどうしたらいいかを考えたいと思います。

セミナーⅠ  戦後精神とは何か──文学の変化からの考察
講師 牧衷さん
牧衷さんは「1945年8月15日についての記録は悲惨さを強調しているものが多いが、そうした記録はぼく自身の実感とは違っている」と言います。牧衷さんは海軍兵学校で「日本はこの戦争で負ける」ということは教えられていました。そのときは日本が負けるいうことはどうなることなのか想像もつかなかったと言います。
 「1945年8月15日のその時の感じは、明るいとは言えないまでも、暗くなかった。自分が透明になったような感じだった。それ以後起こった社会の混乱についても、まともに書かれたものがないのではないか。そのときぼくが感じたことは何だったのか。その時の感じ方と、その後に続く解放感や戦後精神が未だに正当に評価されていない。文学も1945年8月15日の前と後ですっかり変わってしまった。当時の実感と、文学の戦前・戦後の変化から、戦後精神とは何かを明らかにしたい。」
 牧衷さんは、「まだ話したことがない、次の世代に語り継ぎたいテーマです」と言います。

映画 岩波科学映画のDVD化第2集と授業への活用
講師 長谷川智子さん
 長谷川智子さんに、DVD化をすすめる取り組みと、DVDを授業でどう活用するかについての最新の研究を話してもらいます。

セミナーⅡ  たのしい現状分析── 世論の変化を予想する
講師 牧衷さん
 日本で憲法改正論議がなされていた頃、どうしたらいいかを牧衷さんに聞きました。その答は「何もしなくてよい」でした。牧衷さん曰く「まもなくアメリカで中間選挙が行われる。この選挙で(アメリカの)民主党が勝てば日本での憲法改正論議は吹っ飛ぶでしまうだろう。だから、今は運動しなくてよい。」
 それまでは世論調査で日本国内で「今の憲法を変えた方がよい」という意見は5割を越えていました。しかし、アメリカの中間選挙民主党が圧勝して以後は、日本国内の世論は激変し、今の憲法を変えなくてよいという意見が圧倒的多数になりました。牧衷さんの予想どおりだったのです。
 憲法改正の動きに危機感を持った人々が憲法を変えることに反対する運動を起こそうとしましたが、運動は盛り上がりませんでした。ところが、運動とは別のところから改憲論議は消え去ってしまいました。今思えば、改憲論議のとき動き回る必要はなかったのです。牧衷さんのように現状分析が出来るようになるにはどうしたらいいのでしょうか。現状分析の秘訣を聞き、現在の政治状況、経済状況について現状分析してみたいと思います。

セミナーⅢ  勤勉と怠惰──人生の秘訣
 目標を持って頑張ることが大切と言われています。しかしそれも状況によります。客観的条件のないところで頑張っても成果は上がりません。そういうときに無意味に頑張る人たちを牧衷さんは「壁派」の人たちと呼んでいます。目の前に壁があると壁に向かって突進し壁に頭をぶつけて目をまわす。愚かというほかない行動です。しかし、これを愚かだと思う人も、自分ではしばしば同じようなことをしています。
 「牧派」の人たちは「何にもせずも芸の内」と言って、無為に過ごしている内に、機が熟して来るのを待つことを知っています。これこそが、人生の秘訣、仕事の秘訣と言えましょう。人間は幸運から逃れられないのだから、状況によっては無為に過ごす方がいい場合も多いことを知っているかどうかが人生後半の幸不幸を決めるのです。
 努力とあきらめ、目標と無為の使い分けこそが人生のコツ、仕事のコツと言えるのです。

ナイター わが師、わが友、わが仲間
このテーマで牧衷さんに自由に話してもらいます。

セミナーⅣ  国民概念の再検討──国民経済学から世界経済学へ
講師 牧衷さん
 日常用語と学問用語を混同すると、とんでもない混乱に陥ります。物理学の「力」を教えるとき、日常用語の「力」と学問用語の「力」を混同すると生徒は混乱してしまいます。社会の科学でも日常用語と学問用語を区別することを知らなければなりません。
 「国民」という言葉は日常用語として使われていますが、これは学問用語の「国民」と区別しなければ、社会について正しく認識することはできません。たとえば、ローマの中にある世界最小の国「バチカン市国」に住んでいる人たちはバチカン市国の「国民」なのでしょうか。また、中国に住んでいる人たちは中国の「国民」なのでしょうか。北京オリンピックに200近い国々から選手が出場しましたが、それぞれの選手がその国の「国民」なのでしょうか。日常用語としては「国民」と言うかも知れませんが、学問用語としては「国民」と言うことは出来ません。この点の混同が社会についての認識に混乱を招いています。
 国民概念を再検討することを通じて以下の問題を検討します。
 1 国民経済学から世界経済学へ
 「国民経済学とは何か」について考えます。経済学はもとは家計学から始まりました。国民国家より以前には国の経済は家計学の延長で考えていました。しかし、国が国民国家の規模になると、家計経済学で国家の経済を運営することは出来ません。国民国家の経済は家計経済学の延長でない経済学が必要であるということを明らかにしたのがアダム・スミスなどの国民経済学でした。(ちなみに、牧衷さんが東大在学中の経済学の試験問題は「国民経済学とは何か」だったそうです。(木村健康教授の講義)
 日本では江戸時代の藩の経済は家計の延長として考えられていました。家計は赤字になれば節約するしかありません。だからこそ赤字に苦しんでいたどの藩も節約することしか考えつかなかったのです。廃藩置県により日本も国民国家となり、国民経済学で考えなければならない時代に推移しました。経済規模が大きくなれば小さい規模で成り立っていたことも成り立たなくなったのです。
 現在の経済は国民経済学の成立した頃よりさらに規模が大きくなっています。ですから、現在の経済問題を国民経済学では扱うことが出来ません。ユーロ経済学、日中韓経済共同体経済学、さらに世界経済学を建設しなければならない時代になっているのです。(グローバリゼーションは国民経済の世界経済への移行ではなく、アメリカの一国経済学の枠を世界に押しつけようとするもので時代錯誤もはなはだしい代物です。)
 2 国民政治学から本来の意味の国際政治学
 現在の政治は「国民政治学」の枠では解明することはできません。国際政治学が必要とされる時代になっているのです。しかし、現在「国際政治学」と呼ばれている政治学の中味は「国民政治学」にすぎません。時代にふさわしい政治学がどんなものであるかを考えます。