仮説実験授業をどう英訳するか

物理教育国際会議に私はどのように貢献できるか
2006年5月7日

いただいたメールに対する返事です。仮説実験授業や授業書をどう英訳するかということが問題になっていたとき書いたメールです。

[仮説実験授業の訳語について]
 訳語は何がいいかも実験的に決まることだと思います。
 仮説実験授業の訳語をどうするかは、「仮説実験授業は仮説実験学習(learning)でない。仮説実験教授(lesson)でない」ことをはっきりさせることが大切と思います。ハンガリーで発表した論文でも
(以下引用)
仮説実験授業とは何か

 板倉聖宣は、科学的認識の成立条件について研究し、そこから「科学的認識の基礎が仮説と実験にある」と結論づけた。彼はその考えを科学教育に意識的に徹底的に適用して、一つの科学教育の方法を確立した。それが仮説実験授業である。板倉聖宣はこの方法を仮説実験学習と呼ばず、仮説実験授業と呼ぶことにした。それは、この科学教育が教室におけるクラスの集団的な授業として展開されており、個人の学習を中心として展開されているのではないからである。これは、「科学的認識は社会的認識である」という板倉聖宣の科学的認識論に由来している。

What is a Hypothesis­Experiment Method Class?

After researching the conditions for formulating scientific awareness, Itakura concluded that the basis of scientific awareness is rooted in hypothesis and experiment. He assiduously applied his ideas and developed a method of science education, the Hypothesis­Experiment Method Class. Itakura decided against calling it the "Hypothesis­Experiment Method of Learning", opting instead for the present name. This is because he felt that science education should be cultivated in the classroom in a group spirit and not focus on the learning of the individual. Itakura bases this approach on his theory of scientific awareness, "Scientific awareness is societal awareness."
(引用終わり)
としましたが、仮説実験授業を最もよく伝える訳語は Hypothesis­Experiment Classだと思っています。当時は Hypothesis­Experiment Method Classと多少妥協して訳しましたが、これは仮説実験方式授業といった意味になり、わかりやすいかも知れないけれども、ベストとは言えないと今は思います。
  Hypothesis­Experiment Classでは意味がわからないという懸念があると思いますが、それは仮説実験授業だってそれほど意味がよくわかる言葉ではなかったと思います。仮説実験授業が提唱される前から仮説実験授業をやっていたということを言う人に会ったこともあります。今なお、そういう人がいる現実を考えると訳語を適切に選べば誤解がなくなるものではないでしょう。そういう人があまり出てこないのは、仮説実験授業研究会があるからだと思います。
 もちろん、「訳語が悪いために不要の誤解が生まれる」ということを避ける必要はあります。「新しい概念には新しい言葉を」ということはもっともですが、「仮説実験授業」という新しい概念にそれまでよく知られた仮説と実験と授業という言葉を組み合わせて新しい言葉を作ったことは示唆に富んでいると言えるでしょう。
 「極地方式」という理科の研究会がありましたが、「速度という言葉は日常用語で、日常用語とごっちゃにしないために新しい言葉を作る」と称して「速度」のことを「ベロックス」と言って教えていたことがありました。これはその後どうなったか知りませんが、いい教育法とは思えません。ガリレオが新しい概念に対して瞬間速度を「本当の速度」、平均速度を「計算できる速度」としたり、質量概念を質量という新しい言葉を作るのでなく、「本当の重さ」と言ったりしたことが示唆に富んでいると思います。(記憶で書いているので不正確かも知れません。)
 Sさんの「授業をClassと訳すのは無理がある」という意見はちょっと理解できません。lessonでなく、learningでなく、仮説実験授業の教室で起きている現象を表す言葉として Classは最適だと思っています。この訳語についてはAETの意見も聞きましたが、理系の大学や大学院を出ている人でも仮説実験授業についてイメージしてもらうことは難しいと感じました。仮説実験授業という言葉を聞いても勝手なイメージを持つ人はいくらでもいるのですから、訳語と同時に仮説実験授業とは何かを論文でしっかり書くことが必要だと思います。ハンガリーで書いた論文は自分としてはかなりよく書けているように思っています。訳語を決めるときにまず、仮説実験授業を理解してもらい、その授業も受けてもらい、その上で決めました。methodを入れたのはとにかく授業の方式として理解してもらってからという思いでした。
[授業書の訳語について]
 Class Textがベストだと思っています。「授業書」という言葉だって勝手な理解をしている人はたくさんいます。「授業案」くらいの意味で使っている人もいました。教科書とノートと教案を兼ねたものとして「授業書」というネーミングは見事だと思いますが、誤解されないわけではないのです。「Class textではわからない」という意見もあると思いますが、「授業書」だってわからない人にはわからないのです。授業書と聞いてなんだろうと興味を持ってくれた人には詳しい説明があり、わかろうとする人にはわかるように親切に説明するという仕組みが大切と思います。Class Text として説明をつけるのがよいと思います。

 私がこの国際会議でどの程度の仕事ができるかはなはだ心許ない状態です。ただメールを読む中でいくつかの点を指摘できるだろうと思うようになりました。この会議で仮説実験授業関係者が出来ると思われる仕事を列挙してみます。
[仮説実験授業とは何かを紹介する仕事]
 これは論文が必要で、講演という形で発表の場が与えられないと難しいと思います。
[仮説実験授業を体験してもらう仕事]
 ハンガリーのときに瀬在さん(故人)が世界の物理教師に対して「自由電子が見えたなら」の授業をしました。一円玉の問題を世界の物理の教員の過半数が不正解でした。大変好評でした。体験授業を受けてもらうことができれば大変大きくて有益なインパクトを与えると思います。
[授業書の翻訳]
 ハンガリーでは《衝突》《光の波と電波》《自由電子が見えたなら》の翻訳を紹介しました。《衝突》以外は瀬在さんが訳したものですが、今本棚を見ても見つからないでいます。湯沢さんの《光のスペクトルと原子》、塩野さんの《長い吹き矢、短い吹き矢》《ものとその電気》などを翻訳することが出来ればすばらしいと思います。
岩波映画と仮説実験授業]
 岩波映画を使って仮説実験授業をやることの紹介も意義が大きいと思います。このシナリオの翻訳もできればすばらしいことだと思います。

 ハンガリーの時の様子を紹介しますと、だいたい科教協の大会とよく似ていると言っていいでしょう。講演と実践発表という形です。仮説実験授業の大会と比べるのはちょっとお門違いというものだと思います。仮説実験授業に比べたらまったく大したことはないのです。でも、いろいろ参考になることはたくさんあると言うところでしょうか。
[物理教育国際会議に参加する目的]
 これはあまりはっきり言うと問題にされかねませんが、それぞれが「国際会議で自分の授業実践が評価されて自分の実践に箔をつける」という言葉に出しては言わないけれど、ほとんどすべての参加者に共通した目的があります。このことは知っておいた方がいいと思います。仮説実験授業関係者だけはこういう目的と無関係のところにいる、自分たちは特殊なのだという自覚が必要であるように思います。もちろん、さまざまな実践を見聞きして勉強になることも事実です。

[教育研究と組合運動]
 加藤さんという人が「日本の教員がいかに過酷な状況にいるかを訴えたい」とか言っているというのを読んで感じたことを書きます。
 教育研究が組合運動と結びついてきた日本ではそういう発想をする人が少なくないようですが、国際会議で各国の状況を知ったら驚いてしまうでしょう。
 アメリカの代表は各国の授業の持ち時間の比較をしていました。日本の高校の教員の週平均持ち時間は18時間と紹介されていました。どこからデータを取ったのでしょうか。実際は15時間くらいです。とにかく日本は持ち時間が飛び離れて少なく、発表者は「日本の平均の物理学力が高い原因がそこにある」と言いたいようでした。「アメリカその他の国は週平均持ち時間が25~28時間で、日本のように高学力になるようにするために、アメリカの平均持ち時間が教材研究が出来るようになるように運動している」という発表でした。
 オーストラリアの校長で年収300万円くらいですから、日本の教員は大変優遇されているのです。少人数学級は教員の持ち時間を増やすか、教員の給料を下げるかすればすぐ出来てしまうのです。そんなことはあまり言わない方がいいと思いますが、実際のところそうなのだということは知っておいた方がいいと思います。

[物理教育国際会議の主要課題]
 ハンガリーの時に、物理の平均学力の比較がされていて、先進国はみな、低学力なのです。それだけでなく、学習意欲の喪失、学ぶ意義がわからないなどの悩みを抱えています。開発途上国は生徒がみな意欲的で物理の教師も意欲的です。よく知られた実験を喜々として発表していました。先進国で意欲を喚起するために提唱されていたことは、ハンガリーの時は地球環境問題と物理を結びつけるというものでした。それはそれで有意義だと思いますが、物理教師の悩みは解決されません。ハンガリー開発途上国に近く物理に対する生徒の意欲も大きいように見受けられました。(日本の高校物理より1年分くらいグレードが高い内容を教えているようでした。)個人的に親しくなった物理教師は看護学校で教えているということでしたが、学生があまり意欲がないので残念だと言っていました。
 意欲を喚起するためにさまざまな工夫を紹介しあおうというのが、ハンガリーの時の学会の雰囲気でした。ですから、仮説実験授業の紹介などは異色の発表でした。
 国際会議で物理教育を研究対象として学問的に確かなものを築いていくことになることが望ましいことは確かですが、ハンガリーから10年くらいでその段階まで進んできたとも思えません。アリストテレス哲学者の作っている学会でガリレオが発表することに相当するのが、物理教育国際会議だと思っています。