勤勉と楽しさ

 1990年6月9日にMNさんの企画で講演をさせてもらいました。そのときの講演のテープ起こしをMNさんがやってくれました。その一部を掲載します。

   仮説実験授業と私──認識論からみた仮説実験授業

板倉さんと「楽しい勤勉」

ヨーロッパへ行ったとき、ガリレオが幽閉されていた別荘に向かう途中で出た話なんですが、ガリレオ・ガリレイは晩年に有罪判決を受けてその時にいろいろとケチをつけられたのは、彼は正式な結婚をしないで子供を持っているということなんですね。それは非常に不道徳だと言う形で、そちらが中心になってキャンペーンをはられたんです。それでその当時の風潮としては、そういう非難をされたときにはその部分に対しては抵抗できなかったというのです。
「じゃー、板倉さんは大丈夫ですね」と半分からかうような調子で言ったら、からからうのに答えるという調子ではなくてまともに受け取ったという感じで、「俺は大丈夫だー」と言うんですね。(笑)「絶対やましいことはない、どんな部分においても絶対大丈夫だ」と言うんです。
仮説実験授業を初めて知った頃、ぼくはそれまで「楽しい」と思える経験をほとんどしたことがありませんでした。ただ頑張らなきぁいけないと思って生きていました。でも仮説実験授業に出会ったら、<頑張らなきぁいけないというつらい世界>を否定してもいいらしいと思えたんです。
しかし、「楽しい」と言うとすぐに退廃的な生活しか出てこないんです。「楽しい」と言えば、それしか思い浮かばないんです。(笑)「楽しい」と言えば酒をうんと飲むとかそういうことしか思いつかなかったですね。「仮説実験授業が楽しいのは事実だけど、仮説実験授業でできる以外で楽しい生活と言うと何ができるんだろう」と考えたんです。そうするとなかなか思いつかなくて、「じゃー、今まで頑張って生きてきた生活というのはどうもよろしくなくて、なるべくのん気にぶらぶらとやるのが楽しい授業をやる人間の生き方なのかなぁ」と思ったりしました。性格的にいい加減にできないという部分があるから、なるべくいい加減にやろうとした時期があったんです。
ところが、板倉さんを見てるとどうも違うみたいで、「板倉さんは『楽しい、楽しい』と言っているのに、何かものすごく勉強しているらしいし、おかしいなぁ」と思いました。つまり、<楽しさを求める人間は、勤勉なはずがない>と思っていたんです。
 それで、「ひょっとすると、板倉さんは『楽しい楽しい、楽しいことが肝心だ』と言ってるけど、勤勉なんじゃないですか」と聞いたら、「ぼくは勤勉だよー」、(笑)「ぼくはものすごく勤勉なんだ、勤勉でなきぁいけないと思っているし、常に勤勉なんだ」と言うんです。ぼくは楽しさと勤勉とは両立しないと思っていたのですが、そうではないらしいんです。それから大部経ってから、板倉さんははっきりと論文を書きました。「楽しさの勤勉について」という論文を書いたんで、「ああなるほど、たいへんな間違いをしてたなぁ」というふうに思いました。