認識論と組織論は不可分である

板倉聖宣さんは認識論と組織論は不可分であることを強調していた。それはどういう意味か意味かを書いてみました。

「板倉はどうしたら正しく判断できるようになるかを研究した。正しく認識するためにはどうすればいいか、この問いに対して答を与えようとするのが認識論という哲学の一分野である。板倉は、正しく認識するには、よく考えること、よく観察することなどだけでは不十分と考えた。もう一つその考えを聞いて意見を言ってくれる仲間がつくれることが、正しい認識成立のために不可欠だと考えたのである。そのような仲間をどのようにつくるかということに対する答が組織論である。正しく判断できるようになるためには、仲間が必要だという意味で、認識論と組織論は不可分なのである。」

板倉聖宣の科学的認識論には「科学的認識は仮説実験的にのみ成立する。」と「科学的認識は社会的認識である。」の2つがセットで表現されている。この「科学的認識は社会的認識である。」ということを抜きにするとどういうことになるだろうか。新興宗教で信心すると病気が治るというものがある。ある人がそのとおりやったら病気が治った。この信心すると病気が治るということが仮説実験的に確かめられたから確かだと言えるだろうか。これは宗教的認識であるが、科学的認識ではない。科学的認識となるためには、その命題がだれでも納得するように証明してみせなければならないのである。自分が確かだと思っただけでは科学は成立しない。仲間の存在抜きで科学は成立しないのである。その仲間をどうつくるかが組織論である。近代科学成立時の科学研究の組織は、今日の学会の起源である。学会では「自分はこう思う」では通用しない。証明してみせなければならないのである。現在書いている仮説実験授業の成立史の論文は、まずZoomでT氏と2時間以上討議した。「T氏と私の2人の学会」をつくったのである。ここでの討議をもとにして書き直した論文を上田仮説サークルで討議した。ここで9人の学会をつくったのである。あと何回かの討議を通じて論文をまとめて、科学史学会に提出すると、そこの編集委員会とのやりとりがある。「ここで○○と断定しているが、その根拠はどこにあるのか」「引用文献の該当ページを検討したら、そんな記述はなかった」などの意見が出されるのである。この編集会議もまた研究仲間である。