災害救助活動体験記1

平成18年(2006年)7月25日
災害支援活動体験記

7月21日(金)
[緊急連絡]
 夜10時にS校長先生より電話で諏訪市の災害支援の要請が県教育委員会からあったという電話が来た。7月22日(土)と23日(日)の2日間K高校からそれぞれ2人ずつ、県職員全体で4000人の支援が必要ということだった。9時までに諏訪市東洋バルブ工場跡地にスコップを持って集合ということである。
[災害時の判断の仕方]
 「非常時、災害時には平常時の基準、平常時の常識で判断してはならない」ということを日頃から考えていたので、この非常時にどう対処するか考えた。「これは職務命令ではない。」「休日は自分の時間である。」「災害の土砂排除は自分の仕事ではない。」これらはすべて、平常時の判断のしかたである。「大変そうだ」「汚れるだろうな」「自分の体力が持つかな」これも平常時の判断のしかたである。
 オウム真理教事件のときに、「宗教の自由」を主張した人がいた。非常時という考えがないのである。100年に1度の洪水が5年で2回も起きたとしたら、100年に1度という計算は何だったのか。実は、例外的な事態を除いた場合に統計法則が成り立つのであって、例外的な事態をそこに含めるのは間違いなのである。平常時を想定している規則や常識を非常時に当てはめるのは間違いである。非常時に平常時の基準で判断してはいけないのである。その基準は非常時のことを想定していないのだから。
 それに、自分自身が被災した場合を考えてみよう。そんなとき「土日には予定がある」などと言うはずもない。現に被災して困っている人がいて支援を頼んでいるとすれば、ここは現地に行くことにしようと思った。緊急連絡網で出てくれる先生を募るというのも夜中の10時の連絡で翌日の9時諏訪市に集合では無理があると思ったので校長と私で行くことにした。
[前日の準備]
 必要なものは帽子、軍手(2つ位持っていった方がいいだろう)、汚れてもいい服、長袖の方がよさそう。首に巻くタオル2本、長靴、長靴がいくら探してもない。家族に聞くと捨ててしまったという。しかたないので登山靴を用意、運動靴も持っていくことにする。

7月22日(土)
[出発から到着まで]
 新和田トンネルを通ろうとしたら、全面通行止め(災害時にはこういうことがある)。引き返して白樺湖、茅野経由で行き、集合場所の東洋バルブがなかなかわからず集合時刻に遅れてしまった。トラックに数十人が乗って災害地に次々に出発していくところである。
 「道路交通法でトラックの荷台に乗ることが出来るのは1人までのはずだが……」と思い、聞いてみると「道路交通法で災害時は何人でも乗れることになっている」との返事。やはり非常時に平常時の考えを当てはめてはいけないのだと実感する。
[出動]
 待機場所に整列し、30人ほどの班が結成され、渋崎地区担当と言い渡される。「昼食を持っていない人」と聞かれて10人ほどの手が挙がる。昼食を用意してくれるのかと思ったら甘かった。トラックで移動の途中コンビニに止まって各自で用意するのだった。今回の災害は被災していないところの方が多く、コンビニで昼食を買うこともできたが、本格的な災害ではもちろんそんなことはできない。それどころか自分だけでなく、被災した人たちの食事も持っていかなければならないことになるはずである。
 土地勘のあるというもMさんという若い人が班長に指名され、トラックが来るまで待機。この待機時間が長い。ようやくトラックが来て30人ほどで渋崎地区に向かう。班長の携帯に電話が入り行くその途中にある床上浸水した家の畳、家具搬出の手伝いを指示される。行ってみるとその家の規模からすると30人はとても…… ということになり、7人がその家の担当、われわれは渋崎地区に向かう。現地に着いてみると、「被災した家はない」という話で、諏訪湖南東岸の片づけを指示される。
[作業開始]
 葦やゴミ、水草が打ち上げられていて、臭い。スコップではあまりうまくいかない。鋤簾の方が作業がしやすい。「30分で息が上がるかな」と思っていたら、10分で息が上がってしまった。なんともはや。軍手はたちまちびしょぬれ。登山靴はよくない。長靴にするべきだった。30分ほどするとまた携帯に連絡が入って、その作業を打ち切って待機するよう指示された。トラックがなかなか来ない。待機している間に昼食を食べてしまうことにした。昼食は買ったがリュックサックがないので、ジャンパーのポケットにおにぎりとお茶を詰め込んで大変な不格好でいたが、ここで食べてしまうことにした。手が臭く、手を洗う場所もない。
 トラックが来て、どこかの公民館で降ろされる。ここで待機。昼食休憩だという。残ったおにぎりを食べる。1時過ぎにトラックが来て土砂が入った家の地区まで輸送してもらう。ここでゴム手袋が配られた。軍手はだめだ。医師が使うような薄いゴム手袋を持ってきて使っている女性もいる。
 着いてみると砂糖にたかる蟻のような人だかりでバケツリレーで土砂を運び出している。われわれも一軒の家を割り当てられてバケツリレーだ。重機の入れないところは人海作戦しかない。諏訪湖に流れ込む川が氾濫したので土砂が流れ込んだのである。その土砂をスコップでバケツに入れ、バケツリレーでその川に捨てる。1時間ほどの作業でその家の泥は片づいた。女性には泥の入ったバケツの重さは相当のもので、きつかったのではないかと思われた。みないやな顔ひとつせず、実に手際よく作業をしている。全く知らないもの同士なのに、よく意気があっててきぱきと作業が進むことに驚く。ただ、災害の全体像がどうなっているかは全くわからない。新しい疲れていない部隊が到着して交代。それから少し移動して、駐車場に入った泥の搬出である。これは7~8人で10分もしない内に片づいた。
 次にまた別の地区に歩いて移動して土砂の搬出である。こちらは高齢の女性(一人暮らし?)の住宅に流れ込んだ泥の搬出である。この泥には上流から流れ込んだのか葦が大量に入っていて、スコップが通らない。5センチか10センチくらいしか入らないのでほんの少しずつしか搬出できない。一輪車で次々に運び出される。元同僚に会う。顔を泥だらけにして作業している。驚くのはほとんどの人が大変よく気が利くことである。一輪車が小高いところを乗り越えようとしているちょうどそのタイミングで手を貸す。タイミングの絶妙なのに驚く。「この人はお嬢さん育ちでこんな作業したこともないのでは」と思ってしまった(偏見かも)若い女性が必死の形相で作業している。この家のおばさん(おばあさん?)は何度も何度も「ありがとう」「ありがとう」と言っている。彼女が自分でやるなら半年かかるかなと思うような仕事を30人で2時間弱で終わらせた。ここも大変臭い。泥をすくい取ると大変臭い泥が出てくる。(嫌気性の細菌?)
 4時近くなって撤収の指示が出てトラックに乗って東洋バルブ工場跡地に戻る。聞くと同じ班になった人たちの10人くらいは諏訪養護学校の職員だという。ほとんど全員出ているそうだ。後は県の行政職員だと言う。被災していない場所はよく晴れていてのどかな感じさえする。
フラフラになって戻り、アンケートに記入して帰路に就く。明日のために長靴を買った。