科学史学会

科学史学会でルイセンコ学説の日本での普及と崩壊についての報告がありました。ルイセンコの学説はメンデルの遺伝の法則を否定し、獲得形質が遺伝するという説で、今日ではその誤りは確定しています。ルイセンコはソ連生物学者で、スターリンの側近となり、権力的に自分の学説に反対する生物学者を粛正しました。そして、ルイセンコの学説にもとづいて、品種改良をすれば、ソ連の農業で大増産が見込まれるとしました。しかし、それは成功しませんでした。その後ルイセンコは政治的に失脚し、忘れ去られました。しかし、戦後の日本でルイセンコ学説を支持する生物学者たちが、ルイセンコ失脚後もルイセンコ学説の正しさを証明しようとしました。そして、その学説にもとづく農業改革運動を長野県伊那地方で展開したというのです。
驚きです。
さらに驚いたのは、この話を板倉夫妻にしたところ、こうしたことをよく知っているだけでなく、玲子夫人はその農民運動の中心人物の奥様とも個人的に知り合いだということでした。玲子さんの入っている合唱サークルで一緒のその人は夫が共産党議員(どのレベルか不明)で選挙のときは奥さんが大変だという話をしていたそうです。300人からの食事の世話をしなければならないということです。その段取りで手慣れているのか、合唱サークルで食事というときは、40人くらいの食事の段取りは何でもないと言って、手際よく食事の段取りをしてくれるそうです。その夫という人が伊那地方で農業改革運動をしていたというのです。
科学史学会での発表では、この運動はルイセンコ失脚後も続き、1980年代までその雑誌は続いていたそうです。1980年代には私が教員になって10年以上もの間、ルイセンコ学説に基づいた農業改革運動が続いていたということです。しかし、この農業改革運動も成果は上がらなかったそうです。
ルイセンコ学説がソ連で間違いということがはっきりしてから30年間もその正しさを信じて運動してきた人たちがいたということを知ると、人の考えはそう簡単には変わらないと思いました。30年経てば、運動の中心的人物は高齢化し、あるいは死去し、それによって運動が続かなくなったのでしょう。やっていた人たちは考えを変えないでいたのかも知れません。