『信濃教育』投稿論文の転載

雑誌『信濃教育』から原稿依頼があり、下記の原稿を送ったところ掲載されました。自分では気に入っているのですが、いかがでしょうか。
渡辺規夫

公教育の「公」の意味を考える

               (『信濃教育』原稿より)

 最近わがままな子どもが多くなったと言われるようになった。授業で「教科書の何ページを開いて」と言ってもまったく開こうとしない。注意されると口答えする。保護者までが生徒と一緒になって個人の自由、個人の権利を言い立てる。
 こうした事態の中で「このままでは困る。個人の立場を超える公という立場があるんだということを教えなければならない」ということを強調する人たちが増えてきている。
 個人の自由は尊重すべきである。しかし、公教育が進められなくなるのも困る。これをどう考えたらいいのだろうか。
 この問題の解決の鍵は「公」という概念の再確認にあると思う。公という言葉に相当する英語を探すとパブリック(public)とコモン(common)という二つの単語があることに気づく。パブリックというのは「お上」である。コモンというのは「みんな」である。
「公教育」の「公」というのをパブリック「お上の」という意味だと思っているとどうなるだろうか。「学校や教師は生徒のお上だから生徒が言うことを聞くのは当然だ」と考えていると、「個人の自由」や「個人の権利」を持ち出されて対応に困ってしまう。公をパブリックととらえ、個人をプライバシーととらえる限りお上がプライベートな問題に介入しているということになってしまうのである。
 「公」をコモン(みんなの)という意味としてとらえると、そのような問題は生じない。個人individualはみんなの一員なのだから、みんなの迷惑になることをしてはいけない。みんなの役に立たなければいけない。教員は一人一人をみんなの役に立つような人間に育てなければならない。それに逆らうのはお上に逆らうのではなくて、みんなに逆らうことだ。だから個人の自由を言い立てて、勉強しないことが権利などと主張したり、みんなの迷惑になることをしたりするのはとんでもない間違いなのだということを説得力を持って説明できる。
 「公」はコモン(みんな)で、個人(individual)はコモンの一員である。生徒や保護者から学校に対して意見が出されたとき、コモンという立場に立って考えれば、その意見が正当な意見かどうかを判別できる。そして、みんなの立場に立っていないわがままな意見を取り上げて教育活動そのものが出来なくなってしまうようなことにならずに済む。
 公の意味を捉え直した上で改めて公教育の目的は何かを考えてみれば、公教育の目的は生徒一人一人の資質を伸ばしてやることではなく、生徒一人一人を社会の一員としてやっていける人間に育てることであるということに気づく。(教育基本法の第一条に「平和的な国家及び社会の形成者として」とあるのを読み飛ばしている人が多い)誤解を恐れずに言えば、公教育は生徒のためにしているのではない。生徒に勉強してもらわなければ社会(みんな)が困るから勉強させているのである。
 この立場に立てば「君は勉強するのがいやだ、勉強しなくて困るのは自分なんだからいろいろ言われる筋合いはないと言うかも知れない。しかしそういうわけにはいかないんだ。君が勉強しなければ君が困るんじゃない。みんなが困るんだ。君にはみんなのために勉強してもらわなければならないんだ。勉強したくないからやらないというのはとんでもない思い違いをしているんだよ。」
「もともとは個人は教室の中で騒ぐ権利を持っている。けれども一人が勝手をやるとみんなが迷惑するから,教室の中で自由に騒ぐという権利を自分の中から削ってやらないようにしよう。それが人間として上等のことだよ。」
という説明も説得力を持つのである。
 コモンのための教育という立場から考えると、今日のさまざまな困難の解決の方策が見えてくる。現在の教育内容・方法が大幅に変えられなければならないということは明らかである。現代の社会の一員としてみんなが学ぶべき教育内容と方法を明らかにする研究が求められている。その研究が進めばその内容を「新リベラル・アーツ」として確立していくことができるであろう。