国民国家(Nation)概念の再検討

国民国家の概念の再検討の講演の一部を紹介します。詳細は後日

日本の進歩派の凋落

 とにかく,日本では長い間市民か工業かで長い間論争してきた。進歩派は市民派です。そして,市民がなくても,いわゆる民主主義国家は工業化の圧力だけで成立しちゃうんだということになって,工業化が成熟しますと,本当に,ヨーロッパと同じになっちゃう。抱えている問題もほとんど同じになっちゃう。アメリカイギリスと日本とドイツと先進的民主主義国家といわれて国が抱えている問題で共通な問題が多いこと。日本特有の問題なんてほとんどない。学校のいじめから始まって,みんなほとんど同じ。
 同じになっちゃうと「日本には市民がいないからだめだ。だからそれを作るんだ」と一所懸命言って,日本の現状を批判してきた市民派の人たちの言っていることが急にリアリティがなくなっちゃった。それまでは確かに,日本には遅れている部分があって,複合的にやったんだから,第1期的性格がそのまま残っちゃう。それで遅れていた部分が確かにあったんだけれども,第3期になって50年,同じになっちゃった。
 それが誰が見ても感覚的に明らかになっちゃったときに,市民派の議論,進歩派の理論が急にリアリティがなくなっちゃった。それでそれに対する批判が急に起こってくる。出てくる。これが近代主義批判と言われているものであって,丸山眞男に代表されるそういうものに対する批判となって現れて,日本の教科書も進歩派史観に毒されているからいけないのである,元に戻そう。

理由なきいじめ

 ところが元に戻すと言っても,完全に核家族化しちゃったばらばらの社会はなかなか統合の理念を見つけるのは難しいんです。これは今のいじめの問題でも現れていると思いますが,ぼくの子どもの時にもいじめはありました。そして異分子はやっぱりいじめられたんです。その異分子は客観的なはっきりしたいじめられる理由があったんです。たとえば僕はいじめられましたが,僕は下町の商家が多い小学校に通っちゃったんですが,たまたま僕の家は商家でなくてサラリーマンの家庭で,しかも耶蘇の家のお坊ちゃんだったんです。だから服装から何からみんな違う。だから,異分子なんですね。だからいじめられる。そんな状況で僕がいじめられるのは客観的な理由があった。だけど今はみんながみんな同じになっちゃった。

核家族の処世観───その子らしく人並みに

 そうするとどういうことになったかと言いますと,どんどん核家族化しちゃった家族の主権はどこにあるかと言いますと,それはお母さんが持っている。お母さんの処世観は二つありまして,「その子らしく」「人並みであること」って言うんだよね。だいたいが。「その子らしく」は,生まれたときからこうなんだから,こうであることは当たり前だ。だから「その子らしく」は社会的要件になっちゃった。
 ところが,「人並み」というやつが問題だ。てのは「人並み」というのは客観的な基準がない。幻想のものです。だから,「人並み」というのはどこに「人並み」の基準を置くかでどうにでもなるものです。ただ「人並み」という抽象的な基準を相手に,人並みたるべき競争に駆り立てられちゃう。
 親が高学歴の家庭の子どもにとって,親が出たような学校へ行くことが人並みであって行かなければ人並みじゃないよね。ところがそうじゃない家庭ではそうじゃない人並みがあるわけで,人並みってのは客観的基準になりようがない。その家族の属しているところの世間に従って人並みが出来るんだ。幻想の人並みをめざして「みんな等しく」ってことになると,「一番下に合わせないと平等じゃない」っていう悪平等主義になるしね。