commonとpublic

牧衷さんの講演の一部を紹介します。
全文は『仮説実験授業と牧衷運動論シリーズ7 学生運動と仮説実験授業の源流』上田仮説出版に掲載されています。

以下講演
commonかpublicか
── 「エゴ超えざればエゴは守れず」(『運動論いろは』)

 前にもお話ししたように,日本では「公」の成立の事情から「公」という日本語にpublicという英語があてられるようになりましたが,これは明らかに誤訳です。publicは元来privateの反対語として派生してきた言葉でprivateがプライヴァシイという派生語からもわかるように「私」的な領域,余人の立ち入りお断りの領域を示すものであるのに対して,publicは立ち入り自由の領域,つまり公開されたを示す言葉ですから,publicとprivateの間にはその境界をめぐるいざこざは珍しくありませんが,publicがcommonと対立というのは,言語的に起こりっこない。
 しかし,和製英語「パブリック」はその成立の事情からして「お上」に他なりませんから,かつてのイングランドの王権がcommonと対立・抗争を起こしたように,対立抗争を起こします。イングランドでは王(お上)はcommonにかないませんでした。
 では日本では?これはちとややこしい。日本ではcommonという考えがイギリスのように確立されておりません。そのうえ,「お上」が「公」(パブリック)の皮をかぶっているので,「お上」に対抗しようとすると,どうしても「公」と「私」という対抗軸でものを考えがちになる。私権の主張によって公に対抗しようという形になります。住民運動などで,よく「エゴと言われようが,何と言われようが,エゴを突っ張るのが運動だ」などと言われるのも,こうした事情を裏側から立証するものと言えます。
 ですが,これはやはり対抗軸の選びまちがいです。この場合には「お上」のパブリックに対して,さらにその上にある本来の「公」の立場によらなければいけません。前に触れた義士の討入りについての荻生徂徠・室鳩巣の論争のときの言葉をかりれば,荻生徂徠が引用した中国の古典『六韜』の一部「天下は一人の天下にあらず。天下の天下なり」の天下,すなわち「一人(お上)」のものに非ざる天下の天下,本来の「公」の立場に依って,パブリックの皮をかぶった公に対抗しなければなりません。
 しかし,公と言えば「皮かぶりのパブリック」の日本で,パブリックの上に立つ公を立てることなど出来るのかと疑われるかも知れません。
 しかし,それは出来ます。その好例として1956年の米軍砂川基地拡張阻止の運動の成功,1955年に急展開をみせた「松川裁判闘争」の勝利などをあげることが出来るでしょう。そして,そんな昔の話でなく,最近の各地でのダム建設反対の運動のなりゆきの中でもみることができます。ダムの反対もダムの建設によって故郷を失う人たちの「私権」を根拠とする運動の場合はほとんど成功していません。最近になって,そのダム工事の目的や存在が本当に公共の用に役立つかどうかが問題にされ,それにかわる方策が考えられるようになってはじめて各地のダム計画の見直しや中止が行われるようになってきています。都市計画の場面でも今は事業計画の段階になってからその事業が環境等にどのような影響を与えるかの評価(アセスメント)を行えばよいことになっていますが,これをそもそもの都市計画の計画段階で行うようにすべきだとの声が上がり,やがてはそうなっていく方向が見えてきました。更に計画への一般住民の参加の道も開こうとする動きもあります。日本でもようやくお上のお仕着せの公でないcommonの公が形成されようとしているのです。