これからの高校教育のあり方を考える(紀要掲載原稿)2

哲学的関心から近代科学は生まれた

 その研究の方針を立てるのに大きなヒントを与えてくれるのは、近代科学の成立に関わった科学者たちの問題意識である。
今日の高校生が楽しく学ぶことが出来る条件は、近代科学の成立時の科学の姿を再発見することによって可能になると思う。
 科学史上の事実を調べてみると、多くの大科学者は研究することによって給料がもらえるわけでなかったことがわかる。それだけでなく、多くの場合研究すると迫害されるような状況に置かれていた。それなのになぜ研究したのだろうか。それはその研究が楽しかったからである。近代科学を生みだした科学者たちは、哲学的関心から科学を研究したのであって、産業・技術の基礎として研究したのではなかったのである。哲学的関心から研究したというのは、つまりはおもしろいから研究したということなのである。
 もともと、科学というのは、それを研究するのが楽しくて研究されてきたものなのである。しかし、その楽しく研究された成果が楽しく学べないというのはどういうことなのだろうか。
 それは今日の教科書に書かれている科学が本来の近代科学をきちんと伝承していないからだと言うほかない。実際科学の古典を読むと、教科書よりはるかにわかりやすく、はるかに面白いのに驚かざるを得ない。(どうしてこうなったかについて論ずるのは別の機会にしたい)

学問自体を問い直す

 それでは、その近代科学をきちんと伝承する教育はどうすれば可能なのだろうか。
 物理教育の困難は、「ある一定の内容をどのように教えればいいか」という問題が難しいというところにあるのではない。教師自身がこれまで学んできた物理学がどの程度本物であるかを問い直し、学問を作り替えると言うことを抜きにして、今日の物理教育の抱えている困難は突破できないのである。

授業における最重要点 管制高地の授業論

 科学を学んでいると、「そのことをもっと早く教えてくれればわかったのに」と思うことがしばしばある。そういう理解するためのポイントを調べてみると、それはたいてい、科学史上でもその一点がわからないばかりに行き詰まってしまったという概念や考え方であるということがわかる。力の概念の成立なしに力学を理解させることは出来ない。力の概念以外にも、そういった教える上での勘所となるところ、それがわからない限り全体がわからなくなるというポイントがある。そのポイントがどこにあるかをつかみ、それをきちんと教えることが教師の非常に大切な任務である。
 このポイントというのは、軍事用語でいう管制高地、そこを制圧すれば、全体が一気に有利に展開するという地点に相当する。管制高地がどこにあるのか、それを制圧するにはどんな作戦で、どういう手だてを用いればいいのか、こういうことを考えない司令官は、戦争に勝つことは出来ない。同様に、生徒が理解するポイントがどこにあるかを考えないで授業をする教師は、そういう司令官と同じである。(私は平和主義者であるが、主旨を明確にするためにあえて戦争の例を用いた)

わかっていないのに問題が解ける

 実は、たとえば「力とは何か」ということが理解できていなくても、問題を解くパターンを身につければ問題を解くことだけは出来るようになりうる。このような学力をつければ大学にはいることは出来るかもしれない。しかし、そういう人たちが、科学をさらに発展させたり、技術開発において創造性を発揮できるようになるだろうか。ならないと私は思う。
「受験があるから、そんな丁寧なことはやっていられない」という考えもあるかも知れない。しかし、事実は逆で、わかっていないけれども問題の解き方を覚えるという勉強法と、本当に理解して進むという勉強法とでは、受験勉強に限っても本当に理解して進む方がはるかに成果が上がるのである。
 そのようなポイントがどこにあるかを研究すること、これは物理教育学上の重要な課題である。研究した授業のノウハウを互いに交流すれば、飛躍的に授業の研究は進む。教師はそういった研究会に出来る限り参加し、出来れば自分の研究も積極的に発表して行くべきだと思う。そうすることにより、物理をいかに教えるかだけでなく、自分自身が物理をより深く理解出来るようになり、その喜びからさらに研究しようという意欲が生まれてくるのである。

仮説実験授業とは何か

 そのような研究の成果の一つに仮説実験授業がある。仮説実験授業とはそのような研究のエッセンスを濃縮してまとめたものということが出来る。これは、科学的認識に成立にとって最も本質的な部分は仮説と実験にあるという認識論に基づき、基礎的概念・法則を教えるために授業書というテキストにしたがって運営される授業である。
授業書には多くの場合問題があり、ある実験を行った場合出てくる結果について生徒に予想させるようになっている。予想を立てるというのは自分の頭を使って考えるということである。前に習ったことを使って考えるべきなのか、それともこれは別のことを使って考えるべきなのか、全部自分で考えなければならない。考える力というのはこのような授業の中で育成されると考える。

仮説実験授業の成果①
   楽しさが意欲を生む

 仮説実験授業で一つの授業書が終わると必ず生徒にアンケートを採り、感想文を書いてもらう。生徒がどの程度理解したか、この授業を歓迎しているかどうかを調べ、それによって授業を評価するのである。仮説実験授業を受けた生徒はほとんどの場合この授業を楽しいと評価している。これは何を意味するのだろうか。授業の中で苦しくてもがんばる生徒を育てなくていいのだろうか。
 驚いたことに、この授業を「楽しい」と評価した生徒はみな大変意欲的になり、受験の物理もよく勉強するようになった。そして一生懸命やる中で受験の物理にもおもしろさを見いだすようになった。楽しい授業は、生徒を甘やかす授業ではなく、意欲ある生徒を育てる授業なのである。学ぶ楽しさを知った生徒は、「苦しくてもがんばる」という姿勢から「楽しいからがんばる」という姿勢に変わってくるのである。
楽しく学ばなければ創造性は伸ばせない。創造性を伸ばす教育は仮説実験授業を通じて可能になってきたのである。

仮説実験授業の成果②
   自己責任と自分の考えの修正

 予想を立てることは厳しいことである。しかしそれはまた楽しいことでもある。自分の予想がはずれても他人のせいにすることは出来ない。この授業を受けた生徒には、すぐにそのことがわかる。これは自己責任の問題なのである。自己責任で自分の頭を使って考えることが出来る人間、そして実験結果が自分の予想と違ったときは自分の考えを修正していくことが出来る人間、これから必要とされる人材はそのような人間なのである。

仮説実験授業の成果③
   教師自身の変革

 仮説実験授業では、授業がうまくいっているかどうかは教師が決めるのでなく、生徒が決める。この原則は教師の教育についての考え方を変革せずにはいない。「授業について生徒に聞く」ということは、「どんな授業をすればいいか生徒に聞きながら授業する」ということではない。何をどう教えるかを決めるのは教師の任務である。それがよかったかどうかは生徒が決めるのである。仮説実験授業の普及とともに生徒の立場に立った教育をすることが教師にとってだんだん当たり前のことになってきたのである。
この授業をすることは教師にとっても大変楽しいことである。生徒にとって楽しく生きている教師の姿を日々見ることはたいへん教育的なことであると思う。

結論

 今日では貧しさから抜け出すという勉強への動機づけは消滅した。今日の状況にふさわしい動機づけがなければならない。近代科学の成立時の楽しい科学の伝統に立ち返って、哲学的関心が刺激されるような授業をする必要がある。そのような授業の一つとして仮説実験授業がある。生徒は楽しい授業を受けることによって、科学が身につくだけでなく、楽しさの故に勤勉という姿勢を身につけていく。
 この授業は理科離れ、物理離れをくい止めるだけでなく、新しい時代にふさわしい市民を育てる授業であると考える。