四条畷学園小学校公開授業および研究会参加記2

板倉聖宣講演

板倉講演は、教育改革の話である。

「私たちの生き方が変わらなければ教育は変わらない」
教育を何とかしようとしていろいろ研究していくと、とても教育研究の枠には収まらないことがはっきりしてきた。学問的に確かなことがはっきりしていて、それをいかに教えるかを研究するのが教育研究であると考えられてきた。しかし、実はその学問自体を作り替えることなしには、教育をよくすることなど出来ないのだということを板倉聖宣さんは主張してきた。今回はそれを一歩進めて、「私たちの生き方が変わらなければ教育は変わらない」というのである。

分析と総合

 「われわれがぶつかる問題はすべて総合的。総合を総合のままで教えられると思うおめでたい人達がいる。分析して初めて教えられる。その後総合してようやく役に立てることができる。教材の精選で総合が削られた」

考えたこと

医者は合法なら、どんな治療をしてもいいか
   「合法か違法か」ではなく「適切か不適切か」

 分析して初めて教えられるということは、多くの人はわかっているのだろうか。総合的学習が指導要領に入ったことで、総合的に教えようという人は増えるだろう。しかし、総合的であればよいというわけではない。
 医者の治療は、患者の病気を治さなければならない。医療上のしてはいけないことを規定したさまざまな法律がある。その法律に従っていればよいのかというと、それはとんでもないことである。法律に従わないことはもちろんいけない。しかし、法律に従った治療方針は無限に考えられる。その中のどの方針を選ぶかは医師の裁量に任されている。任されているということは何でもいいということとは違う。医療の目的、この場合は患者の病気を治すという目的があり、そのためにどの治療方針が一番いいかを医師は考えるべきなのであって、法律に違反しなければ何でもいいのではない。

基準に従えばいいという考えの弊害

 同様に、教育方針を考える際に、指導要領に従っていさえすれば何でもいいと考える教師がいたらそれは困ったことと言わざるをえない。指導要領に違反していなくても悪い授業はいくらでもあるのである。生徒を賢くするという目的に合っていない教育は、指導要領という基準を満たしていてもやってはならないのである。「指導要領に違反していなければ何をどう教えてもいい」という教師がいたら、「医療法に違反していない限りどんな治療をしてもいい」と言っている医者にかかる気がするかどうか聞いてみるとよい。そんな医師にかかろうという人はいないだろう。ところがそれに相当することを言ったりやったりしている教師が大変多い。それどころか、そうした教師を評価したりするものさえいる。

 「指導要領で総合的学習をするように規定している。
  →この授業は総合的に教えている。
  →よってこの授業はいい授業だ。」

というような授業の評価が行わている。
(これまでも環境教育が始まったばかりには、環境を扱っているが故にその教育内容が何であってもよしとする意見が多々あった。)

教育方針をどう決めていくか

総合的な学習をさせる教育方針は無限にある。その中でどの方針をとるかは現場の教師に任されている。教師は教育の目的を考えたときに、どのような方針で教えると一番いいかを判断する権限が与えられているのである。それは、教師が専門家であるからと世間で思われているからである。しかし、その専門家にふさわしい判断する力を現場の教員は持っているだろうか。持つような努力が求められていると言えよう。教師も勉強しなければならない。

目的意識を明確に

建築には基準がある。地震が来ても大丈夫なように基準が定められた。しかし、多くの建築業者は、基準に従いさえすればいいと考えてきたのではないか。その結果が阪神大震災での建物の倒壊であると考えられないだろうか。生徒の中にも、基準に従いさえすればいいという考えをするものが少なくない。3分の1以上欠席すると単位を認定できないと、基準を決めると、3分の1までは休んでもいいと考える生徒が現れる。
 肝心なことを基準を満たしているかどうかではない。基準を満たしていないのは問題外である。建築には、建築の、授業出席には授業出席の目的がある。その目的をどうすればよりよく達成できるかを考えるべきであって、どうすれば基準をすれすれにでもクリアーできるかを考えるべきではない。
 どうも基準を与えられることで、基準をすれすれにクリアーするのが賢い生き方だと思ってしまったらしい。目的意識の再確認が求められる。「どうすれば基準を満たせるか」という生き方から、「どうすればよい仕事が出来るか」という生き方に教師自身の意識が変わらなければならない。

分析と総合を総合的にとらえる

 総合的学習の時間をどのように組み立てるかというときに目的意識を明確にし、目標設定を的確にし、そのための適切な方法を考えるようにしなければ、ただ「基準を満たしている」というだけの授業になってしまうだろう。
 授業で学力をつけようと思ったら、分析的手法をしない限り成果を上げることは出来ない。総合的学習の時間においても、その中で分析的手法が必要である。総合するためにはまず分析しなければならない。
分析の必要性は次の例を考えてみれば明らかである。

例1 英語の勉強における分析的手法

 英語の勉強も分析的にやらなければダメだ。単語を取り出して覚えることが必要。単語を覚えるだけでは使えるようにならない。総合が必要だ。
 単語を覚えるだけで応用が効かない→総合が欠けている。
 単語を覚えないで、ひたすら繰り返し読めばわかるだろうという主張                 →分析が欠けている。

例2 国語の勉強における分析的手法

 漢字を取り出して覚えさせる教育は必要である。日本語の文章を分析して難しいところを特に説明し、練習させることは必要である。総合が必要といってもこれをなくしてはいけない。漢字を覚えさせるだけで、教科書や本をすらすら読めるようにするという教育をしないのもいけない。分析するだけで総合しない教育である。

例3 実用的な場面での科学の法則の総合的適用

水洗トイレの水を出す仕組み
 てこの原理と浮力の原理が組み合わされている。これをそのまま(総合的な学習と称して)教材にしようとすると、生徒は理解することができない。てこの原理や浮力の原理は切り離して(分析して)教えなければならない。そしてその後で、それらを総合して、水洗トイレの水を出す仕組みを解明していくこと(これが総合である)が大切なのである。

例4 スポーツの訓練における分析と総合

 野球では、キャッチボールをしたり、ボール回しをしたり、バットの素振りをしたり、トスバッティングしたり、ランニングしたり、筋力トレーニングしたりしている。これらはみな、野球の試合に出てくることを分析して取り出して練習しているのである。ここのプレーの上達があって初めて、総合練習が意味をもってくる。総合が大切と言って授業の中で分析をきちんと扱わないのは、毎日練習試合だけしていて野球チームが強くなると考えるのと同じである。

例5 オーケストラにおける分析と総合

パート練習(分析)だけでオーケストラができるわけではない。総合練習が必要だ。しかし、そのためには、曲の部分部分の個人練習や、パート練習をしなければならない。

例6 化学における純物質の重要性と応用における混合物の重要性

現実の生活においては、そのいろいろな純物質を混合させて使っている。日常生活に出てくる物質を考えてみれば、化粧品、料理、洗剤などはみな混合物である。日常生活においては純物質をそのまま使うような場面はほとんどないと言える。そこで、「日常生活に即して物質を理解させることが大切だから、これからの教育では純物質を教えず、混合物を教えればよいと考える人がいるかもしれない。しかし、それは総合のみあって分析のない考え方である。混合物のままでは物質の性質を明らかにすることはできない。純物質を取り出して初めて、物質の性質を解き明かすことができる。分析があって初めて総合が意味を持つのである。

明礬について

板倉講演では明礬についての話もあった。これまでの化学の授業は薬品棚から薬品を取り出して実験するところから始まる。それがよくない。初めて化学をやった人は薬品棚から取り出さなかった。自然から取り出した。明礬という言葉は、古代からある。この話からヒントを得て、戸隠の明礬についての研究が始まった。

講座【2倍3倍の世界】

出口陽正さんの講座に出た。これは今授業でやっているからだが、1カ所やり方がわからなかったところがあった。そこを詳しく聞けてよかった。
 考えてみれば、授業をよりよくやるためにわざわざ大阪にまで来ている自分に感心してしまう。しかもこれが楽しくて仕方がないのだから。ここに来ている人たちは教師としての生き方が違う。この生き方のすばらしさを多くの人にどう伝えていくかということも、大きな仕事であるということを強く感じた。

住本さんの【楽しい同和教育

みんな同じにすることが平等?

 この講座には、ごく一部しか参加できなかった。
 日本では、「平等」ということを「みんな同じにならなければいけない」と思い違いをした。「同じにしよう、同じになろう」としても同じになれない。そこで、同じになれない人を差別するようになった。要するに平等にしようとするつもりで差別を作り出したのである。『人権宣言』に何と書いてあるか。「みんな同じにしなければいけない」と書いてあるか。書いてない。
 平等という言葉は、明治期に訳すときにどういう訳語を充てるか苦労した。というのは、自由とか平等とか人権とかいう考えが日本にはなかったのだから、それに相当する言葉もなかった。経済用語は明治期に訳すときに苦労しなかった。市場も為替もみんなあった。しかし、自由、平等などの思想はなかったのである。そこで平等という訳語を聞いてもそこから受け取る感じは、欧米のもとの言葉の意味とだいぶ違った意味に受け取られてきた。
 実は、「平等」でなく、「公平」こそが求めるべき基準なのである。(公正といったかもしれない)差別をなくし、人権を擁護する教育はどうすれば可能か。それは、仮説実験授業をやると、実現するのである。
 「一人はみんなのために、みんなは一人のために」はもともとイギリスのラグビーの言葉だった。フォワードが得意な者もいれば、バックスが得意な者もいる。それぞれのメンバーの得意とする個性を発揮することがみんなのためになり、みんなはそれぞれのメンバーが個性を発揮できるように協力するという意味だった。日本に入ると、その意味は、「みんなのために一人一人ががまんせよ。そうすればみんなはその一人を守ってやる」という意味になってしまった。なぜそうなったか。それは日本の社会がイギリスと異質だからだ。
 犠牲バントアメリカの野球ではあり得ない。

売場 ダイオキシンの分子模型を買った。

最後の板倉講演「21世紀の教師論」

この会に来ているような教師がこれからだんだん主流になっていくだろう。