四条畷学園小学校公開授業および研究会参加記1

1999年10月に四条畷学園小学校で開かれた仮説実験授業の研究会に参加したときの記録です。
私が初めて仮説実験授業に巡り会ったのは1973年の夏、初めて研究会に参加したのが四条畷学園小学校での仮説実験授業入門講座でした。26年ぶりに参加したときの記録を上田仮説サークルで発表しました。その記録を再録します。

以下当時の記録文
    四条畷学園小学校公開授業および研究会参加記
                        1999年11月27日
10月22日~23日の大阪四条畷の公開授業研究会に妻とともに参加することにした。

26年ぶりの四条畷

 思えば、26年前、仮説実験授業の研究会に初めて参加したのがこの四条畷学園小学校での研究会だった。新卒1年目の23歳の野沢南高校定時制の理科の教員だった私は、板倉聖宣さんの本を読んで感激して、仮説実験授業なるものをこの目で見てみたい、板倉聖宣さんに直接会って話を聞きたいという一心で、大阪まで駆けつけたのだった。当時見たのは、小野田さんの《電流と磁石》の授業、堀静香さんの《浮力と密度》の授業、それから、板倉聖宣さんの「仮説実験の論理と連想の論理」という講演、城雄二さんの《洗剤を洗う》という講演授業だった。
 板倉聖宣さんの講演は、今から考えると不思議な気もするのだが、そのときは何を言っているのかほとんどわからなかった。この時以後は板倉さんの講演はよくわかり、人に後で「板倉聖宣さんがどういう話をしたか」を説明できたのだが、このときはどうしたことか、ほとんどわからなかったのである。後で出たガリ本でその講演のテープ起こししたものを読んでも、「この講演を本当に聞いたのだろうか?」と疑問に感じるほど、内容についての印象がないのである。しかし、その講演を聞きながら興奮していたことは確かである。

 少しおどおどしながら入った受付の場所も26年前と同じようにあった。26年前にはその受付でドーナツ型磁石が売られていた。手に取って見ていると「ウッカリすると指をはさんで血豆を作るよ」と話しかけてきた「おじさん」がいた。名札を見ると[板倉聖宣]とある。「ああこれが板倉さんか」と思ったことが昨日のことのようである。そのときの板倉聖宣さんは42歳、ずいぶん年上に感じたが、ただただ板倉さんの後を追いかけてきた自分は今はもう49歳、当時の板倉聖宣さんより年上になってしまった。感無量である。

新居信正さんの算数(小5)の割合の授業

新居信正さんは、徳島県の小学校の算数教育の大権威である。板倉聖宣さんより1歳下というから、もう退職して8年目になるはずである。初めて四条畷に来たとき、人だかりのしている講座分科会があった。何かと思ってみると、算数数学分科会だった。当時、算数数学教育には興味がなかったのだが、その翌年の広島での仮説実験授業研究会全国大会での新居講演を聞いて新居ファンになってしまった。以後送ってもらった資料は数え切れないほどである。研究上の大恩人である。
 新居さんの授業運営については多くの人の絶賛するところだ。今回はその授業をこの目で見たいと思ったのである。教材の組み立て方もさることながら、話術、人心収攬術をみたいと思った。
 教室に行くと始まる時間までだいぶあるのに教室は授業を見る人でいっぱいである。かろうじて教室の前の一角に場所をとることが出来た。それにしてもこの新居さんの授業を見ようという人の人数と熱気はどういったらいいだろうか。学校から旅費をもらうわけでもなく、それが出世の役に立つわけでもないのにこの授業を見に来ているのである。ビデオカメラをセットしている人もいる。

「鉛筆1本」から授業は始まった

最初に「自己紹介はしません。鉛筆1本」と言って、それ以外の教科書ノート類を机の中にしまわせるところから授業が始まった。これは私にとっては新しい発見だった。鉛筆1本とプリント1枚だけ。当然子どもたちは今問題としていることのみに注意が集中することになる。「子どもが授業に集中しない」と言って嘆く教員の多くは、果たして、この授業のように、注意をそらす原因となりうるものを机の上に出させないという指導をしているであろうか。

授業に関係ないものを机の上に置かない

 牧衷さんから「映画を作るときには、画面に不要なものを映さず、今問題としていることだけに意識を集中させるように画面を構成する。」という趣旨の話を聞いたことがある。授業でも同様な配慮が必要である。授業に関係ないものは教卓にも生徒の机にもあってはいけないのである。しかしそのような配慮をしている教師はどれだけいるだろうか。
 最近の高校生は、授業中も机の上に雑誌、携帯電話、化粧品その他を積み上げていて、教科書もノートも持たず、授業を集中して聞くことがないと嘆く声をしばしば聞く。授業に不要なものを持ってきているのは、授業を聞く気がないからといってようだろう。しかし、また、不要のものを持っているために授業を集中して聞くことができなくなっていることも確かである。「今、問題にしていること」のみに意識を集中して考える訓練が必要と考えるが、そのためには、不要のものを置かないことが必要であり、教師の指導が必要だと思う。

かつて当たり前だったことを今は誰も知らない

 この点について、新居さんに授業後に聞いたら、初期の仮説実験授業研究会では、「仮説実験授業をするときに机の上に鉛筆1本しか出させない(消しゴムも出させない)」ということは、当時の会員にとっては当たり前のことであったという。
 しかし、これは現在の多くの会員にとって当たり前と言えない。初期の会員は当たり前と思っていてそれを言わず、若い教員はそんな方法があり得ることも知らないので、そうしていない。 鉛筆1本のみを出させるという指導法はまねしていくべきことであると思った。
 授業の内容については、また機会があったら書くことにしよう。とにかくこれだけの人が真剣に授業を見に来ているということに、日本の教育もまんざらではないと感じたのであった。