イタクラ式発想法の会

 2004年1月31日~2月1日に佐賀県でイタクラ式発想法の会がありました。その会に参加したとき、参加報告を書きました。それを再録します。文章は一部修正しました。
【報告の要点】
・自分がしっかりすれば世界が救われるというつもりで研究する。
・10人の敵を作ってもその背後にいる1万人の味方を作るような研究をする。

   イタクラ式発想法の会で印象に残ったこと
2004年1月31日~2月1日
佐賀県 嬉野町嬉野温泉嬉野館にて


実践的課題

 参加者の宿題として「私の実践的課題は何か」という報告を書くというのがありました。ところがどうも発表される「実践的課題」という報告が聞いていても「何が課題なのか」がはっきりしないものが少なくありませんでした。竹内三郎さんが司会をしながら、「甘ったれるなというのが大前提で、甘ったれている人が発想法という方法を身につけると何かできるなどと考えてもらっては困る」と言っていましたが、まったく同感でした。

私の提出資料

 私は「仮説実験授業と私」というMNさんがテープ起こししてくれた10数年前の中野サークル旗揚げ記念講演の記録を持っていきました。板倉さんに「43ページもある記録だけれども読める内容で編集も大変いい。」と評価されて、うれしく、また力づけられました。
 「構造改良と仮説実験授業」という資料も持っていきました。これは『発想』第4号(季節社)に掲載された原稿です。板倉さんのコメントは「申し訳ないけど読んでない」というものです。この論文は政治的論文なのでコメントするのはまずいと考えたのかも知れません。
 「石橋をたたいて堂々と渡る おそるおそると大風呂敷 板倉さんの論文発表に見られる手法」という報告をしました。これは板倉聖宣さんが国立教育研究所にいた頃『内外教育』という雑誌に書いた論文と『科学と仮説』季節社に所収した論文の微妙な違いを論じたものです。これが板倉聖宣さんの「石橋をたたいて堂々と渡る」のひとつの例ではないかとしたものです。それに対する板倉聖宣さんのコメントは、「発表のとき何をどう考えたかは今はもうよく覚えていない。石橋をたたいて堂々と渡るということは常に大切に考えてきた」とのことでした。

参加者全員の資料についてコメント

 SMさんの資料の中の「できあいの答はない」について
板倉 「できあいの答はない」と言うと正しいようだが違う。近眼の人が近眼を解決するには眼鏡をかけるというできあいの答がある。江戸時代眼鏡をかければいいということがわかって、眼鏡を大量に輸入した。
私の考え
 授業書というものが、「どう授業したらいいか」という問題に対するひとつの出来合いの答である。「出来合いの答がない」という考えは授業書というものを作っていくことを否定する考えである。出来合いの答がある場合もあるし、ない場合もある。「出来合いの答はないに決まっている」と考えることで解決できる問題を解決できなくしているのである。

俺がしっかりすれば,世界は救われる

板倉 さっきも言ったように,学生時代も自然弁証法研究会で数人の熱心な政治運動をやった連中がいて,その連中が「板倉さんの言うとおりだ!」と言うので,学生運動の中にスターリン批判的な文脈を元にした運動が起こり,それがまたたくまに全国に展開していった。それが「新左翼」という言葉の始まりです。そして僕は,「その新左翼の運動には同調しないぞ!」ということは非常にハッキリさせて,それがもとで仮説実験授業が提唱されるのです。だから,仮説実験授業は,そういう政治的な問題から離れたところで,しかし「先見のあるようなことでやっていきたい」と思っているのであります。
── 今の話で板倉さんの問題意識とか,問題の取り上げ方の説明もあったのですけども,その問題設定の仕方は新聞なんかの取り上げ方と違いますね。
板倉 俺の方が専門家だもの。だからみんなは「一人の力は弱い」と思うでしょう。ところが僕には今さっきのスターリン批判のことで,「一人の力も強い」と言う確信があるのですね。だから,「一人の力は弱い」と言うようなことは言えない。だから,「俺がしっかりすれば,世界は救われるかもしれない」と(笑い),…。それはすごく大げさな言い方ですけれども,でも時と場合によっては,「それが本当かもしれないな」と小さく言ったりするわけです。
 つまりほとんどの人は,「俺がちゃんとすればなんとかなる」と言う,そんなに自負心はないでしょう。でも,「そうかもしれないな」と言う人が,日本の社会にも,教育の社会にも,いろいろいて欲しいわけだ。そこがまず違いですね。それで,「俺がしっかりすればちゃんとなるかも知れない」と思えば,勉強の仕方が違ってもくるわけでしょう。
 だいたい「俺がしっかりしていれば」という考えからすれば,この新聞記事を見つければすぐに「これは今の政治にとっては影響はあまりないかもしれないけど,未来にとってはすごく大事だから」と,僕は他の仕事を放棄してやります。これを優先順位の1位にしてしまうのです。

10人を敵にまわしても背後の1万人を味方にする

 だから僕は,「研究所のほとんどすべての研究紀要はウソだ」と思っているものだから(笑い),僕がみんなから恐がられてあたり前なのです。「今日の報告は全然デタラメです!」と言えちゃうのです。教育学の論文などは,そういうところで全然吟味が不足しているのですね。
 だから,学問に対して僕はうるさいわけだ。うるさいと敵が増えちゃう。「嫌なやつだ」となるでしょう。だから,僕なんかは,今さっきもちょっと言ったけれども,「ちゃんとした学者になるためには敵を作ることを辞さない。円満な紳士には学者になれない(笑い)」と。それで,僕は円満な紳士を止めたのです。だから俺が死んだら,「敵多かりし人」(笑い)「敵を増やすことを恐れず、敵を作らないことよりも真理を大事にした人」と言われるようになるでしょう。(笑い)
 でも,僕はたくさんの敵を作ったけども,僕にとっては大衆の方が大事なので,「10人の敵を作ることによって1万人の味方を増やす」という作戦を取ったのです。たくさんの人に支持されることが大事なので,そのためには「10人の敵を作っても仕方がないなあ」と思ったのです。普通は,10人の敵を作りたくないと思って行動して結果的に1万人の味方を失うことになっているのです。そうは言っても「10人を敵にまわしても背後の1万人を見方にする」ということを貫くには相当の決意が必要ですよ。だから,「善良な人」というのは(敵を作ることを恐れ、やるべきことを貫くことができないので)「あ,この人ダメだな」となりますね。そういう意味で学問というのは根本的に厳しいのです。でも,不用意に敵を作らないようにしなければいけないね。