公と私

佐久教研で全体講演は信濃毎日新聞主筆(?)の中馬氏。おおむねいい講演と思いましたが、いくつかの問題点も。
 「公と私」を「国家と家族」としてとらえていました。これは常識的なとらえ方ですが、「国家主義者が家族を大切にすべきだという主張をしている。」という事実と乖離しています。問題のとらえ方がおかしいと問題解決できないことを示していると思います。「公」は「国家」でなく、「common」です。その観点で「公と私」の問題をとらえると、今解決できないと感じられている諸問題も解決策が見えて来ます。「ゲマインシャフトゲゼルシャフトの問題」としてとらえることが肝心だと思います。
 中馬氏は「現代が先が見えない時代」という認識のようでしたが、以前は先が見えていたのでしょうか。先が見えていなくてもなんとかなる時代だったのではないでしょうか。かつては先が見える時代だったとすると、今日の「先が見えない時代」が来ることを予見できなかったことを説明できません。昔も先がみえていなかったのです。しかし、先が見えなくてもなんとかなっていたのです。急に先が見えない時代が来たわけではありません。
 中馬氏は「現代を目標の喪失の時代」と把握しているようでしたが、これも的確な現状認識とは言えないと思います。昔も意識的な目標があったわけではありません。目標設定がきちんとできていなくてもなんとかなった時代だったのに、そうはいかなくなったと考えるべきだと思います。
 現在、現状認識として言われていることはこれまでのリーダーが無能だったということを意味しているのであって、急に大変な時代が来たわけではありません。これらの現状分析はおもに企業経営者の現状分析です。その現状分析は見当違いもいいところです。見当違いの現状分析から出てくる改善策や改革案は役に立たないだけでなく、有害です。そんな現状分析に基づいた改革案に振り回される必要はないと思います。
 今日の事態になることは予想通りのことですが、それに対して適切に対応できる人材は圧倒的に不足しています。仮説実験授業関係者のやるべき仕事はますます多くなってきているということでしょう。
 何に努力すべきかということを解明する努力をしないで、やみくもに頑張るのは努力とはいえません。でも世間は闇雲に努力している人を評価してきました。それでは立ちゆかなくなったというのが現代という時代だと思います。「何に努力すべきか」という問題意識をこれまで以上に強く持つ必要がある時代が来たと思います。