上賀茂神社のあふちの木

放送大学の島内 裕子 (放送大学教授)先生の『方丈記』と『徒然草』の講義をときどき聞いています。
島内教授によると徒然草吉田兼好は、隠遁生活で書を読むことに浸っていて、その生活に行き詰まったそうです。
 第三十八段
 名利に使はれて、靜かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
と主張したもののその先が見えなくなりかかっていた。
江戸時代の北村季吟という学者は徒然草にここまで書かれていることは、みな何らかの書物に出てくる考え方であると言っています。(老子荘子、仏典、などなど)書を読み、学を究めて、そのあげく、前進できなくなったというのです。これはゲーテの『ファウスト』の最初の部分の嘆きとも共通するのでしょうか。70年代には書を捨てて街に出でよというスローガンもあったと思います。
兼好にとって、そのときに、転機となったのが、第四十一段
 五月(さつき)五日、賀茂の競馬(くらべうま)を見侍りしに、車の前に雜人(ざふにん)たち隔てて見えざりしかば、各々(おのおの)下りて、埒(らち)の際によりたれど、殊に人多く立ちこみて、分け入りぬべき様もなし。
だと言うのです。
これは、「書物を捨てて街に出でよ」ということでしょうか。
この段で続くのは
かゝる折に、向ひなる楝(あふち)の木に、法師の登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう眠(ねぶ)りて、堕ちぬべき時に目を覺す事度々なり。これを見る人嘲りあざみて、「世のしれ物かな。かく危(あやふ)き枝の上にて、安き心ありて眠るらんよ」と言ふに、わが心にふと思ひし儘に、「我等が生死(しゃうじ)の到來、唯今にもやあらむ。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事は猶まさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「誠に然こそ候ひけれ。尤も愚かに候」と言ひて、皆後を見返りて、「こゝへいらせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れはべりにき。
 かほどの理、誰かは思ひよらざらむなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸にあたりけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。
となっていて、「あふちの木」というのが、木の枝の分かれ方が上に腰掛けるのによさそうな木であるというので、このあふちの木を探したら上賀茂神社の構内にありました。
現代語訳
五月五日、上賀茂神社の競馬(くらべうま)を見物に行きました時に、牛車の前に下賤の者たちが立ち隔たって視界が遮られ見えなかったので、おのおの牛車を下りて、馬場の周囲の柵の際まで寄りましたが、ことに人が多く混んでいて、分け入っていけそうな様子もありません。そのような時に、向いにある楝(あふち)(栴檀)の木に、法師が登って、木の股にちょっと座って見物している者がありました。
木に取り付きながらたいそう深く眠っていて、落ちそうになるたびに目をさますのです。これを見る人が嘲り、驚き呆れて、「世にも珍しいばか者だなあ。このような危ない枝の上で、安心して眠ってるよ」と言ったので、私の心にふと思いつくままに、「我々の死が訪れるのだって、今すぐに訪れるかもしれない。それを忘れて見物して日を暮らすのは、愚かさにおいてはずっと勝っているではないですか」と言った所、私の前にいる人たちは、「本当にその通りでございますな。たいへん愚かでございました」と言って、皆、うしろを見返りて、「ここへお入りください」と言って、その場所を去って、呼び入れてくれました。
この程度の道理は、誰が思いつかないはずもないのですが、折が折ですから、思いかけない心地がして胸に響いたのでしょうか。人は木石でなく、心ある生き物ですから、時によって、心動かされることも、無いわけではないのです。
ここで法師が腰掛けていたあふちの木というのは、枝がこのような木だったのでしょう。写真を撮ってきました。
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