情勢分析のしかた

 2008年9月13日に牧衷さんと打合せをしました。その際、牧衷さんがどうやって情勢分析のしかたを身につけたか質問しました。その時の記録(抜粋)です。

以下その記録  (  )内は編集者の解説

── 牧さんはどのようにして情勢分析が出来るようになったんですか。

学生運動での情勢分析

 僕もはじめは(どうやれば情勢分析できるか)わからなかったんです。武井昭夫(てるお)(当時の都学連委員長)の情勢分析は馬鹿の一つ覚えなんです。でも「馬鹿の一つ覚えだからいい。」ということもあるんですね。当時は米ソ対抗の時代ですから。武井の情勢分析は要はプラウダソ連共産党中央委員会の機関紙)の受け売りなんだよ。(それはそれでそれなりに的確な情勢分析になっていたともいえる。)
 その内に朝鮮戦争が始まると(ソ連共産党は)変なことを言ってくるんですよ。「火炎瓶闘争やれ」とかね。そんなこと日本の革命のためには役に立たないことはわかりきっている。もしそのとき、「国際的な要請で困っているから助けてくれ」と言われればぼくはあれほど激しく反対しなかったかもしれないんです。それをかっこつけて、「日本革命にとって必要だ」なんて言うから、「許せるか」っていう話になり、その辺から、「自分で情勢分析しなければだめだ」と思うようになったんですね。
 そこで権威主義、事大主義から手を切った。手を切ると、学生運動から切り離されるからしんどいことはしんどいんですよ。ぼくは学生運動するために大学に入ったんだから。(火炎瓶闘争というのは)要するに(朝鮮戦争北朝鮮側に立った)後方攪乱なんだから。日本にはフランスがナチスに対してしたようなレジスタンス闘争をする条件はない。フランス人はナチスが嫌いだったけれど、当時の日本人はアメリカが好きだったんだから。中国みたいに山に籠もってやるなんて条件はますますない。どうすればいいか。
 反戦のデモやったりストライキやったりする、というふうになればその当時ぼくが唱えていた方針とほとんど同じになる。それは日本革命の一つの道筋だから、彼らがそういうふうに言ってきたら僕もああまで頑強に反対しなかっただろうと思います。もちろんそうしたとしても僕は火炎瓶には反対して除名されたかもしれないけれど。

力石定一の情勢分析

──力石定一さんは火焔瓶闘争をどう考えていたんですか。
 力石はそのときには「冗談じゃないよ」と言っていました。力石の分析は何にも基づいていないんですよ。自分でした情勢分析なんですよ。だから、力石は本当に力がある。あの論文読んだときぼくは本当にびっくりしました。的確です。直接的にはコミンフォルムの方針をを受けて方針を考えていますから「反米闘争しなけりゃいかん」と言っていますが、反米闘争から武装闘争に行くんじゃなくて、平和と民主主義の問題をを前面に出してそれで闘うという方針になる。あのときにもう(革命の)平和移行路線なんですよ。フルシチョフの平和共存の路線ですね。フルシチョフより5年も前に出している。びっくりしましたね。力石というのはすごいヤツだ。武井は全員加盟制自治会の意義をを主張したけど、それは僕たちも一緒にやっているから、わかっていたんですね。(力石定一の革命の平和移行路線は)どこからどういうふうにして彼がそういう発想を持ったのかよくわからないんです。それで力石に聞いたんですよ。そしたら力石は 「コミンフォルムで反米闘争っていうんだけど、やたらな反米闘争やったってしょうがないしさ」って言うんですよ。そこから彼なりの革命戦略があって(革命の)平和移行路線を導き出したんですね。ブントの連中との決定的分岐点はそこなんですよ。ぼくは平和移行戦略、ブントは暴力革命戦略ですから、激しく対立する。

感性の革命

 僕や高野が平和移行路線を主張できたのは徹底的な民主主義者だからなんですよ。民主主義のない世の中はいやなんですよ。やっぱりね、僕の中で何かが変わったな、僕の感性の革命があるんですよ。 見渡す限りの焼け野原、何もなくなっちゃうんですね。それが実に あっけらかんとしているわけです。空が青くて 日本的にじめじめしたものがなくなっちゃった感じで、その時の解放感とか自由、日本が日本でなくなった。ひょっとしたらスペインだという感じ、それがすごくあるんですよ。それはある意味で僕と同年代の世代にあるものなんで、戦後の世界のディテールを思い出せば陰惨極まるものですけれども、全体の印象はすばらしいんです。

詩の歴史から戦後精神を見る

 焼け跡の景色というのは。茨木のり子は僕の3歳上ですけれども、茨木のり子の詩に「焼け跡で目玉を拾った」という詩があるんです。透明な目玉で遠近法の測定の確かな目玉だという詩なんです。彼女もそういう感じを持ったんじゃないか。そこで何か遠近法がひっくり返るんですよ。それまで僕のまわりにあった日本が胡散霧消しちゃうんですよ。あとに焼け跡が残る。何にもないから何でもあるんですね。それでまったくの自由なんだだという解放感。
 谷川俊太郎は僕より3歳下だけど、谷川俊太郎の詩の中にも非常に透明なカラッとしたところがある。ジメジメしていない。だから叙情の質が変わるんだよあの時。それはすごく僕には新鮮だった。その時に僕の仲のいい詩人の花田栄三というのがそれでしてね。その時に、喪失感につながる連中とはどうも話が合わないんですよ。たとえば三島由紀夫。あれだめなんです。ぼくは。三島の小説うまいと思うしすごい才能だと思うけれども、やっぱり共感できない。僕の少し下になるけど江藤淳がいるけど江藤はあのとき何を見たんだと思うけれども、恐らく江藤淳は喪失感の方が強かったんだと思うんです。親父が横須賀の長官ですからね。旧日本の偉い人だったから。非常に喪失感があったと思う。
 多くの人がそこをしゃべらないのは僕はメチャクチャ間違いだと思う。そこで日本の文化がほんとに変わるんだもの。戦前の詩と戦後の詩はほんとに違うんだから。詩の話でもそういう話になればおもしろいんだけどね。一つにはジメジメしなくなったということ。戦前の詩でユーモアを探すのが大変だったんですね。いること入るんですが。山之口貘なんて大家がいましたけどね。

戦後の詩人の特徴

 でもそれがほんとに出てくるのは戦後の若い人の詩にそういうのが多くなるんです。若いというのは当時の若い世代、僕の世代ですね。その連中は主情的になれないんです。自分をどこかで突っ放して見ている。「とは言うもののねー」というのがどこかにある。だから、のめり込めない。そこが違うのかも知れない。板倉聖宣は敗戦の時「もうだまされないようにしようと思った」と言いますけど、彼の中でも何か転換があったんだと思いますね。

明るかった戦後の世界

 僕は戦後の世界って嫌いじゃないんですよ。「大変だ、大変」だという話ばかり出てくるでしょ。後世の人が記録を見てそこから生活の具体を調べ上げたらなんとも悲惨ですよ。やっぱりそれはそれで覚悟を決めるんですが、要するにほんとに腹が減ったら家族の絆なんてなくなるんです。そういう思いするでしょ。「そんなことの原因になるようなものはもう許せない」というのがあるから、そういう覚悟みたいなものはありますね。腹が減ったら家族の絆もへったくれもあるかという、剥き出しの個としての生物としての人間に自分に還元されてしまうという状況を見ちゃうと、一方で度胸もつくんですね。「本来人間てこういうものだ」という度胸がついちゃうんですね。そこから後は理性の問題なんで、本来はやっぱり野獣と変わらないよ。生物学的人間を見ちゃうとね。そうなったのは後から考えるとどうにも後味が悪いんですよ。
 野坂昭如の『火垂るの墓』という小説があります。妹の食い物を取っちゃったために妹が飢え死にしちゃうんですよ。そういう陰惨な世界だったんだけど、一方でものすごく明るい世界だった。
 その時に受けたそういうものは歴史に出て来ないですからね、でも僕は詩の歴史をやるとそのことがはっきり出てくると思っているんです。明らかに感性が変わる。文化革命なんですよ。