上田仮説サークル論2(最終回)

サークルの現状

 サークルの現状は決して悪いとは思わない。大変充実していると思う。しかし,以前と比べるとやはり,充実度が下がり,散漫なサークルになっているように思える。
 私が,上田仮説サークルに期待しているのは,研究の役に立つサークルである。何をするのが研究になるのかは,自明ではない。「研究とは関係ないかもしれないが・・・」といって発表したことが大きな研究につながることもしばしばある。だから,「研究が大切」だからといって雑多な発表をしにくくしてはいけないと思う。雑多な研究や紹介が出てくるのは大いに歓迎すべきである。
 サークルの財産に
③情報交換の場,人脈形成の場
ということがある。これも大切な財産である。サークルの活気はこの部分から来ているものが大きい。しかし,敢えて比較すれば①②の財産(研究者・聞き手)の方が③の財産(情報交換の場)よりはるかに価値があると思う。

サークルに入門講座・体験講座は必要か

現在,体験講座をサークルに合わせてやっているが,私見によれば,サークルと体験講座は目的が違うので,同じ日にやることには無理があると感じている。サークルは研究をメインにしてほしいと思う。
 落語には手品など色物が必要である。どんなにうまい落語でも,次から次へと話を聞くだけでは疲れてしまうし,飽きてしまう。そこで色物と呼ばれる手品などを見て,気分転換が出来るように舞台(高座?)が構成されている。,しかし,色物ばかりだったらどうだろうか。これは落語を聞きに来ている人からすると困ったことである。もちろんその方がいいという人もいるだろうが,わざわざ寄席に来るほどの人の大部分は手品を見に来ているのではない。
サークルで,ものづくりなどが紹介されるのは,色物のようなものである。私は思想としての仮説実験授業の研究をしたいので,(そうでない人がいてももちろんいいのだが)そうしたレポートに時間がとれ,十分評価できるような運営を期待したいのである。
 この会はすでにみなベテランで,授業運営の研究についてもほぼ飽和状態のように思える。体験講座への要望はあるのか疑問に思うのだが・・・。

情報交換会・資料交換会としての側面

 西尾でかつてサークルを資料交換会としたことがあった。これは数回ですぐ不満が出てやめることになった。サークルに来る人が期待していることは,資料の交換ではなく,資料の発表,議論といった研究だったのである。上田仮説サークルに私が期待することも資料交換会ではなく,研究会なのである。

付論 昔の話
 すべての文書は歴史的文書である。すべての主張は歴史的主張である。 昔々,ある仮説実験授業の会で私が体験したことです。
 小野田三男さん(当時学習院初等科教諭,その後校長,現在退職)に夕食のときビールを注ごうとしたら,「研究に来ていますので・・・」といって断られました。かつての仮説実験授業の大会ではだれも酒を飲まなかったのです。新居信正さんは大酒のみだったけれど,その新居さんでさえ仮説実験授業の大会ではいつもがまんしていたのです。
 いつからか,仮説実験授業の大会で夕食に酒を飲むのが当たり前になってしまいました。今となっては考えられないでしょう。(飲んでいけないと言いたいのではありません)
 かつては教員の平均的姿は大変きまじめなものだったのです。仮説実験授業研究会に参加する教員も大変きまじめでした。何でもきまじめに徹底的にやる先生ばかりだったのです。仮説実験授業でない授業も非常によく勉強して工夫して教えていたのです。四条畷の山本正次さんが板倉聖宣さんに(仮説実験授業でない)授業を見てもらって最初に言われた講評が「頑張る価値のないことを一生懸命やっていますね」だったそうです。板倉聖宣さんは「そのエネルギーを価値ある研究にまわしてほしい」という気持から「くだらぬ仕事は改善せず」と言ったのです。
 これが「すべての主張は歴史的である」という命題の応用問題です。 「研究に対してまじめであろうとするならば,(くだらぬ事務処理に時間とエネルギーを注ぐのではなく)事務処理はさっさと片付け,(片付けないでいてあとでますます忙しいことになる愚を避けて)研究に時間をかけなさい。」そういう文脈で「くだらぬ仕事は改善せず」「いいかげんがよいかげん」と言ったのです。
 現在のように教員の平均的姿がいいかげんのときにはその言葉をそのまま振り回してはいけないのです!

人を動かすにはまじめさが必要

 佐久総合病院の若月院長が「全共闘くずれの医師の主張がもっともと思う点がありながら,そこにまじめさ,真剣さが感じられない。」と言ったことがある。また,私の学生時代,全共闘運動はなやかなりし頃,あるノンポリで比較的右寄りの学生が「民青は誠実だが,全共闘には誠意を感じられない」と言った。実際そのとおり。誠意のない運動は人は動かす力はないのです。
 どうでもいいことにまじめになることはよくないが,不真面目礼賛もよくない。サークルニュースに「遅刻・早退自由」とわざわざ書くこともないのでは・・・。そう書かなければ早退できないと感じる人もいないのですから。「遅刻・早退を認めない」というときにだけそう書けばいいことだと思います。
仮説実験授業の研究会はしばしば,「司会はだれでもいい」としています。これは「だれでも司会が出来る」と言うことであって,「どんな司会をしてもいい」ということではないのです。「いいかげんがよい加減」になるようないいかげんさがいいのであって,「いいかげん」ということそのものをおもしろがってはいけないのでは・・・・。

これは仮説実験授業の研究でなく組織論の研究

 これは私の全く私的な意見です。違う意見を持つ人も尊重したいと思っています。サークル運営について,議論するのはサークルそのものとは違うので,サークルの貴重な時間をこのことであまり費やしたくないとも思っています。これはサークル組織論の研究であるから。この論は仮説実験授業と関係あるとは言っても,仮説実験授業の研究そのものではありません。読んで思うところがある人がいたら,運営(運営は参加者がしているのである)する上でそれを意識してやってほしいと思っているのです。
 サークル運営に「こうすればいい」という絶対というものはないと思います。まさに仮説実験的にやってみて,みんなの意見を聞いて適宜修正していくというのがいいと思います。いろいろやってみてその結果サークルがつぶれてしまうということは起きそうもない情勢なので。

あとがき
 書いてから読み直してみて,やはり私は「こうするのが正しい」という教条を立てて論理的にそれを押し進めるように議論する習慣がついていると感じました。(あまりよくない)
最近牧衷さんから聞いた話
 「仮説実験授業は修正主義である。修正主義はいけないという考えが多いが修正主義がいけないという根拠は何か。根拠はない。修正主義がいいのだ。実験結果によって考えを変えていく,方針を変えていくのが仮説実験主義で,これは修正主義の一種である。仮説実験授業の研究の特徴はこれまでの教育を一遍に変えようとしないで,出来るところから変えて来たことである。教科書を全面的に書き換えようとはせず,授業書を作ってきた。今となっては仮説実験授業は教育を非常に大きく改革してしまった。仮説実験授業が成果をあげてきた歴史は修正主義の方針が正しいことを示してきたのである。政治学ではこれを構造改革,あるいは構造改良という」(文責渡辺規夫)

 私は「修正主義は教条主義より悪い」と信じていたはずでした。ところが牧衷さんのこの言葉を聞いてそれをそのまま受け入れている自分を発見しました。私は自覚しないままいつの間にか修正主義者になっていたのです。牧衷さんの話を聞いていてそれに気づきました。私は仮説実験授業を繰り返しやる中で,いつの間にか修正主義者に変わっていたのです。
 しかし,上記の論は教条主義的論調にも思えます。なかなか文体までは変わりません。しかし,これから意識的に修正主義的になろうと思ったところです。上記の論文も実験的に間違いとわかればすぐにも修正します。