学力を考える研究会

長野県教育文化会議主催の学力を考える研究集会で発表したレポートです。
長野県の子どもたちの学力が低いということが問題となり、上記の研究会が開かれました。実を言うと、その研究会はその前年にも開かれ、受験学力を問題とする研究会でした。私は発表するつもりでいたのでずが、発表者がいなくて困ると言っていて、私が発表したいと言っているのに発表できませんでした。翌年1996年にようやく発表の機会が来て、発表したときの資料です。この会では「マスコミでも日本の受験体制のためにどのように教育がゆがめられているかが問題になっているのに、今の体制の中でも理想的な教育ができるなどと主張するのはけしからん」と批判されました。今日になれば、その主張がどんなにナンセンスか明らかだと思います。発表のとき問題外の扱いを受けた報告でしたが、集中攻撃の後の休憩時に、ある先生から、「本部役員は否定したけれども、私は先生のいうとおりだと思う。」と言われました。このとき私は「学力を考える総合研究集会」は、学力をどうつけるかを研究する研究会ではなく、学力をつけるべきなのに文部省が、県教委が、校長が悪いために学力がつけられないと主張する会なのだと思ってしまいました。そのような会で現実に理想的な授業をし、かつ受験にも対応できているという報告は困った報告だったのでしょう。人が悪いと言い張る運動に同調したくないと強く思った研究会でした。
以下レポート

第5回学力を考える総合研究会
 報告 学習に意欲的に取り組む生徒集団を育てる
  1996年10月18日

はじめに

 「何が真理であるか」を追求するのが研究会の役目である。それでは、真理であるか否かの判定の基準はどこにあるのだろうか。教育研究集会の場合、多数決によって真理を決めようとする傾向があるように思われる。しかし、多数決で真理は決まらない。私が実践報告する中で、「どうすれば学力がつくような生徒集団を形成できるか」についてあることを主張する。それが正しいかどうかは、それと同様のことをすれば、同様の成果が得られるかどうかで決まるのである。私の主張を正しいのではないかと思われる方は是非実践してみていただきたい。そしてその結果を知らせてほしいと思う。

この研究会で何を明らかにするか。
  ――どうすれば生徒の学力が無理なくもっと伸びるか

「学力をつけようとする取り組みがどのような弊害をもたらすか」ということについて、ここで述べようとは思わない。現在の教育はこのままでも弊害が多すぎて、現状を変えた場合の弊害を云々した結果、現状維持になることの弊害も非常に多いと思うからである。
 実際U高校では、現状の弊害に目を向けず、組合の言っていることを根拠にして学力をつけるような取り組みを批判する人が大変多い。
 数年前学力問題がクローズアップされたとき、U高校では「学力向上事業を引き受けない」ことを職員会で何度も決定した。学校長は繰り返し学力向上事業に立候補することを提案したが、そのたびに否決された。最後は組合の本部から説得にきて、反対する人が欠席する職員会で「学校長と教頭だけでやる」と言うことで決まった。当然学力向上事業に対しては職員は否定的で、「学力を向上させないことが民主的であり、組合的である」と思っているのではないかと、思われかねない言動が見られた。組合がマイスクール主義を批判すると、自分の勤務する学校をよくしようとすることが、反組合的であると言わんばかりの発言をする先生もいた。「このままでは、U高校はどんどんだめになってしまう」というと、受験体制に乗った発言だというのである。そこで現実には非常に多くの問題を抱えているにも関わらず、問題点を明らかにし、解決するという方向にはなかなか進まなかった。
 中学生の体験入学についても「体験入学をやること自体に反対」という意見が強く出され、最終的にやることになったものの、なるべく消極的にやることが受験体制を激化させない民主的なやり方だとされているような節がある。そのため、U高校のすぐ近くにすむ中学生(入学後模試で長野県一番)が、遠くのN高校に進むことになった。その一番の原因は体験入学で熱意を感じなかったということであるという。(この部分は伝聞)

 組合は、受験的になりすぎないようにというつもりだったかもしれないことを、学力をつけようとすることが悪いことであるかのごとき方向へ進んでしまったのである。「そんなことはない」と言う人もいるかもしれないが、私にはそう思えてならないのである。
 U高校分会では、日の丸君が代反対闘争でも、本部から闘争の一部中止の指令を受けるなど、迷走しているとしか思えない状況である。しかし、それは、高教組の言っていることに忠実なのであると思っているのである。(この迷走ぶりを高く評価するような発言は不当である)

現状分析の誤りとそれに基づく方針の失敗

 このような混乱がなぜ起きたのであろうか。これは現状分析が誤っており、誤った現状分析に基づいた方針に従えばたちまちおかしくなることの典型的な例である。

普通に考えられている進学校の生徒の現状は、受験に追われ、先生に勉強を強制され苦しい毎日を過ごしているというものである。
 実際にそうなのだろうか。たとえば、生徒は平均して毎日どのくらい家庭学習をしているのだろうか。8年前の1年生の秋の調査によると平均2時間であった。そのころN高校の調査を見る機会があったが大差がなかった。最近ではどうだろう。昨年の1年生について秋の時点での調査も大差がなかった。(やや減少している)
 他県ではどうだろうか。たとえば20年前、10年前、最近でどうだろうか。
 東大の二次試験の合格最低点が業者によって推定されている。それによると、440点満点で

1980年入試で
  理Ⅰ 230~240
  理Ⅲ 290
  文Ⅰ 230~240だった。

10年後の1990年入試でどのくらいだろうか。
これより上がっているだろうか。
同じだろうか。
下がっているだろうか。

資料によると
1990年入試で
  理Ⅰ 200
  理Ⅲ 260
  文Ⅰ 200
                (長岡清氏の資料による)
 これは何を意味するのだろうか。東大の入試問題が難しくなっているのだろうか。入試問題を扱っている人は知っていることであるが、東大の入試問題は難しくなっていない。むしろ易しくなっている。全国で一番よく勉強したと思われる(?)東大合格者にして、16年前と6年前で勉強している量がずっと減っているのである。だから、全国的に受験勉強の量はずっと減っているのである。これは日々生徒を教えていればわかることである。にもかかわらず、自分が教えている生徒から受ける実感よりも、世に言う「受験体制がますます厳しくなってますます、生徒は勉強に追われている」という話の方を信用していると言えないだろうか。
 事実ははるかに昔より、少ない勉強で大学に入学しているのである。そしてこれはいいことである。というのは、現在の高校の教育内容は、幕末の幕府や藩の学校で教えられていた内容同様その意義が以前よりずっと小さくなっているのだ。だから、つまらないことをたくさん勉強しなくてもよくなってきつつある。そのような変化をもたらした張本人は、勉強しなくなった全国の受験生なのである。

予備校的授業をすれば受験学力はつくはず・・という議論の落とし穴

 U高校にきたとき聞いた見解に「U高校も予備校的授業をすれば受験学力はつく。しかし、高校教育ではそういうことをしてはいけないのだ。もっと理想主義的な教育を追求しなければいけない」というものがあった。この趣旨には賛成するものの、「予備校的授業をすれば受験学力がつく」という考え方には賛成できなかった。一つには、予備校的授業はそんなに簡単ではないと言うことである。(*)そして、予備校的授業というものの、高校で普通に行われている授業は(程度を落とした)予備校的授業そのものではないかと思っていたからである。

生徒は理想の授業を受けつけないか。

 授業でいろいろな工夫をして、県教研などで発表していた人が、受験高に転勤すると、ほとんど発表しなくなるという傾向がある。実験など様々な工夫をした授業を工夫を生徒が受けつけない。生徒が「受験のためにならない授業はイヤだ」という。そこで本物の教育をしたいが予備校的授業をせざるを得ない。
 このように言う人が少なからずいる。言わなくても思っている人は相当数である。
これは本当の話だろうか。生徒が受験に走っているから、理想的な教育が出来ないのだろうか。受験体制のあり方が問題だからこうしたことになるのであろうか。
 そうではないと思う。それは、その授業が予備校的授業以下なのであるということにすぎない。教育についての研究が遅れている。教育で掲げる理想が受験でつぶれてしまうとしたら、それは理想が低すぎるのだというのが私の見解である。もちろん受験を明日に控えた生徒が受験のことしか頭にないのは当然である。しかし、高校は3年間あるのである。その3年間に理想と思う授業が出来ないとしたら、それはその高校が受験高であるからではなく、その教育が悪すぎるのだと考えるべきである。そう考えないところに、誤った現状分析が生まれ、見当違いの方針が提起されるのである。

 「やる奴はやるし、やらない奴はやらない。どう指導するかと成績は関係ない。」と主張する人もいる。これでは、教育という仕事が成立する条件を失ってしまう。
 実は、建前では「指導の仕方に関係ない」と言っている人が、センター試験の結果を見て、成績の悪い教科を責めるという現実もあるのである。責められてこぼしている人の言い分をもとに方針を立てるとしたら、その方針をもとにした運動の結果は最初から決まったようなものである。「責めることはよくない」と言っていた人自身が責め立てたりするのだから、「受験体制の弊害だ」と言っても弊害は弊害として、責め立てるという状況は変わらないだろう。

 現在必要なのは、現在の体制が悪いと言い張る運動ではなく、正しい現状分析をもとにして、的確な方針を提起することである。(現状の中でも出来ることはたくさんあるし、それで成果も上がるのである。もっとも成果を上げることが目的でなく、人が悪いと言い張るのが目的の場合は、成果が上がるなどと言う話は都合の悪い話であるから、取り上げないことにもなるであろう。)人が悪いと言い張る運動は何もしたくない人にとっては、実に都合のいい理論なのである。しかも、それが民主的だと言ってくれるのだから。